楽太郎です。
本ブログでは、日月神示を参考に「悪を抱き参らせる」をテーマに、「悪を憎まない」ことが大切であるとお伝えしてきました。
しかし、「悪を許す」のを理念として分かっていても、頭ではそうしようと思っても、目の前で行われる「悪事」を見るかぎり、「そうとも言い切れないのではないか」と感じられるのも、無理ないかもしれません
今回は、「理想主義」としての話ではなく、より現実的な視点で「悪にどう対応すれば良いのか」を書いていきたいと思います。
「二元論的善悪」が生み出す「戦争」をどう考えるか、少々難しい話になるかもしれませんがヒントになる部分もあるかと思いますので、参考になれば幸いです。
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世界に「光」や「癒し」を求めれば、かえって「悪」や「闇」が際立ち、忌々しく感じられるかもしれません。
「光のみの世界こそ理想である」と考え、「闇を無きものにしよう」とするからこそ、「表」の綺麗な部分しか見ずに「裏」や「内面」を隠してしまったり、「闇」を否定して攻撃対象にしてしまいがちです。
これこそ「善の外道」に陥りやすい思考であり、自らを「絶対正義」と思うために排他性や排除に向かう力を肯定してしまうのです。
「善」を志向しながら「我良し」の「悪」に染まる、これが「善の外道」です。
言葉面や表面上は整合性があり、一見正しく見えるからこそ、「善の外道」による「悪」は浸透度が高く、反論を許さない風潮すら生み出しうるのです。
この論法は、常に善良たろうとする人々が無自覚に使ってしまう誤謬としてではなく、完全に「作為」を持つ人々も意図して用いることに注意しなければなりません。
つまり「世界平和のため」と言って行う暴虐無尽ですら、美辞麗句が伴えば「綺麗事」となって罷り通ってしまうからです。
今日のあらゆる論争、また戦争の根底にあるのは「善」を語るがゆえの「正当化」、すなわち「我良しの合理化」にあると言っても過言ではないでしょう。
確かに、これらの「錯覚」が現代社会に悪影響をもたらしていることは否定できません。
ただし、こうした「悪」が「禍事」を世にもたらすことによって、物事の学習や反省から世に「改善」が起こります。
これが「弥栄」の仕組みであり、時代が進むごとに改善が促されることで、世は徐々に「永続性」を獲得し、文明は「成長」していくのです。
従って、「悪」は次の時代を切り拓く「礎」であり、世が進むための「必要悪」であり、「弥栄」という「善」へ向かう上では「善の一部」とも言えるのです。
この宇宙をお造りになられた神が、「悪」という存在を自ら生み給われ、かの存在をお許しになる理由には、「悪」がもたらす「禍事」のたび、「学び」と「成長」が世にもたらされるからでしょう。
「悪」が「善」に対峙するものとして存在し、また「悪神」に対する「善神」の御活動も、事実として疑いえないことです。
ただ、これらの関係は「平面」で起こる図式であり、高い次元から見れば「闇」も「光の一部」と言えるのです。
「善」も「悪」も、神々より上位の御神格からすれば等しく生み給わるたものであり、「悪を憎んではならない」と言うのも、神示にある通り「悪を憎むことは神を憎むこと」に等しい行為となるからです。
ここで「とは言え」という話になります。
「悪を憎むな」と言っても、例えばモノを盗まれたり親を殺されたりして、悪人に対して「怒るな、憎むな」というのは相当難しいことです。
大抵の人は、「そこまで腹は決められない」と思うのではないでしょうか。
悪人を眼にする時、湧き上がる「悪感情」には様々なものがあります。
悪人の性質、または悪行そのものに対する「嫌悪感」、自分や誰かの損害や不公平さを知る時の「怒り」、理不尽な事実と直面した時の「悲哀」、「悪」と対峙した時に抱く「倫理観」や「正義感」の発露としての「憎悪」などです。
私たちが「悪人」や「悪事」を目の当たりにした時、これら別々の感情が一緒くたになって情緒に現れます。
この「悪感情」が、ない混ぜのまま表出するからこそ、直面した「事実」に対して「悪を憎む」というリアクションに収斂してしまうのです。
つまり、湧き上がる「負の感情」と「善悪の判断」は切り離して考えることが可能なのですが、感情の切り分けができないと「不快の原因=悪」にすり替わり、「悪を滅ぼせば解決する」と錯覚してしまいます。
ここで大事なのは、「悪行の事実」と「不快な感情」と「自らの倫理観」は全く別々の要因であるということです。
そして、「事実への対応」と「個人の感情」は別問題であり、ここを間違えると「悪を滅ぼす」ことが至上の「正義」となり、感情が暴走を始めます。
現在、連綿と続く争いや諍いの連鎖には、こうした「混同」が根底にあり、だからこそ罪も謂れもない人々が生まれた瞬間から迫害の憂き目に合ってしまうのでしょう。
日月神示に言う「悪を憎むな」とは、「悪への対応」と「悪への感情」は別のものとして処理せよ、という意味に取れるのです。
当然、世の中には様々な人がおり、色々な価値観の物事に接して暮らしています。
いくら自分にとって「忌々しい」と思えるような嫌悪の対象でも、それが実際に「悪」とは限らず、時には個人的な「好き嫌い」の範疇に収まることかもしれません。
けれど、ここに「倫理観」を持ち込むと、世の中を変えてでも自分の「嫌いなもの」を排除することに目が向いてしまうのです。
実は「憎む」という感情自体にも謂れはあるのですがそれはさて置き、「感情」が「善悪」に置き換わり、「悪への対応」が「感情」に支配されることに問題がある以上、「悪を憎む」上で行う所業も問題含みになる可能性が高いと言えます。
だからこそ、日月神示は「悪を殺すと言うその事が、悪そのものと知らざるや(海の巻・第五帖)」と説き、「悪を滅ぼさんとする善」を戒め、これを「三千年の過ち」と称するのでしょう。
私たち人類は、未だ「善悪二元論」の平面的議論の応酬から抜け出ること叶わず、「立体」としての帰結に向かおうにも「宇宙の上位存在」を認めないために、堂々巡りを続けるしかない状態にあります。
日月神示の教える「一二三(ひふみ)」とは実践哲学であり、神秘思想を超えた倫理観の枠組みなのです。
ゆえに、「仏教」にも「キリスト教」にも応用しうる実践論だからこそ、宗教を超えた「神の道」と言えるのではないでしょうか。
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ここで一旦、段落を挟むのは本題である「悪への対処法」に話を移すためです。
ここまでは「悪を排除する悪」について語ってきましたが、そもそも「排除する必要性を生み出しているのは悪人自身」という事実にも目を背けるわけにはいきません。
あらゆる犯罪を野放しにしたり、罪を犯して何の責任も取らせないことは、かえって悪を「助長」させかねないでしょう。
そのため「抑止力」を兼ねる制度としての「法律」があり、この基準に則って犯罪者は裁かれるわけです。
こういう措置が求められるのも、人が望む望まないに関わらず「悪事」を行ってしまうからです。
では「悪を憎まない」にしても、人が行ってしまう「悪事」には、どう向き合うべきなのでしょうか。
日月神示「極みの巻・第十五帖」には、こうあります。
「右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元じゃと申しているが、それは無抵抗ではないぞ、その心根をよく洗って見つめよ、打たれる様なものを心の中に持っているから打たれるのぞ、誠に居れば相手が手をふり上げても打つ事は出来ん、よく聞きわけて下されよ、笑って来る赤子の無抵抗は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ、左の頬を出す愚かさを止めて下されよ、世界一家、天下泰平じゃ」
これを読むと、「いくら可愛い赤ちゃん相手でも極悪人なら何でもするだろう」と思ってしまうのですが、そうではありません。
これはあくまで「宇宙法則」としての考え方であり、つまりは「引き寄せの法則」を極論にまで押し広げると「悪心がない者に悪は近寄って来られない」という原理に対する説明なのです。
そして「悪心がない」という「身魂が磨かれた状態」こそが「平和の元」であると仰りたいのだと思います。
つまりは「我良し」の考えがない心であり、他人を排除して争おうとする「外道」の悪とはまた違うものです。
これは「岩戸開き」後に「ミロクの世」となった世界では基本的な枠組みとなり、また「次元上昇」を経て「霊界化」した宇宙において、この「引き寄せの法則」がより強く働くことが予想されます。
つまり「心根が善良な人々」にはそれ相応の平和な社会、そうでない者には該当の出来事が起こる環境になるのでしょう。
ただ、ここに述べられる「心が清らかなら悪人は近寄れない」というのは些か現実味に欠ける印象があり、仮にそうなるにしても虚実ないまぜの現代において、誰しも「被害者」になり得るのは否定できないと思います。
では、もっと敷居を下げて「悪」にどう対応し、どう予防したら良いのでしょうか。
それは単に、「悪事とは距離を取る」ことだと思います。
今のように一斉に世が乱れる時というのは、「大多数」の人々が賛否両論ありながらも悪事を許容する場合が多いのです。
例えば「一万円以内の万引きは合法」となったとして、「モノを盗んでも犯罪にはならない」世の中になれば、「法律では悪くないんだから」と、多くの人々が「万引き」するような社会になってしまうでしょう。
当然、どの店も薄利多売でやってますし、万引きが横行すれば商売として成り立ちませんし、店主の側に立って「万引きは良くないことだ」と声を上げても、「合法だし助かる人もいるから悪くはない」という反論に負けてしまうでしょう。
本質的な「善悪」は置いといて、仁義に駆られた人が横行する万引きをやめさせようと、周囲の人を一人ひとり説得して回ったり、店に入ろうとする人に注意して回ることも、残念ながら現実的ではないのです。
また、「万引きが合法なのはおかしい」と考え、制度を変えようにも議会が動くとは限らず、法改正までの間に廃業する店は増え続けるでしょう。
「万引き肯定派」と直接の対峙は避けられず、こうした「紛争」にかなりのエネルギーが浪費されることも予想されます。
文章を書けたり、弁の立つ人ならアプローチにも道は開けていますが、誰しもできる訳ではありません。
ここまで来ると「自分はやらない・関わらない」という選択しか、確実に人が実行に移せることがないことに気がつくはずです。
これは「事なかれ主義」が正解であると言いたいのではありません。
もし「変えられる」なら、変えられる段階で然るべき対応をすれば良いわけで、ここでの議論は「個人」の力を超えた「巨大な力」が「悪事」をなそうとしている時、問題に対応する能力が欠落している条件下でどうすれば良いのか、という話をしています。
今日のように、国家や強権的組織が大多数の人々に圧政を強いる環境にあっては、この状況は決して絵空事ではありません。
自分でも避けようのない「悪」と向き合った時、できるのは「自分だけは染まらない」という判断だけなのです。
では、目に見える「犯罪者」に対してはどうでしょうか。
「暴力」が支配する世の中となるのは、たまたま隣あった人に「銃」を突きつけられる危険があるから、自分も武器を持つ必要が生じるような状況です。
この時、「自分も銃を持っている」と示すのが「抑止力」です。
現在の「核」保有の議論はこの通りと言えるのですが、例えば街で「強盗」の被害が起きた時、家に「バリケード」を張るとかえって犯罪者の目についてしまいます。
映画「ホームアローン」のように、それとなく泥棒撃退の仕掛けを張っても、罠だらけの家では逆に安心して暮らせません。
もし著しく治安の悪い街に住まずに済むのであれば、「海賊」も「山賊」もないような土地に移り住むことが最適解であり、そうでなければ犯罪の起こり得ない「気の合う人」同士で和気藹々と暮らすことくらいです。
「相手の挑発」を抑えるという意味での予防策の誇示は、かえって相手側の武力を助長し、その「準備」に対して双方が歯止めの効かない投資を無際限に続けることになりかねません。
そんな経済合理性にも戦略としても及ばない面がある対応策が、平和への唯一の道かと言うと、そうでもないでしょう。
「相手への攻撃的姿勢」が「戦争的対立」に繋がり、「相手への積極的な防御姿勢」はかえって「挑発行為」に繋がるのです。
大事なのは、「攻撃性を示す相手」に対して「直接の関わりを持たない」こと、仮に関わりが生じた時に「関係性をいかに最小限にするか」という点です。
この「備え」こそ、日月神示にもあった「赤子心」とも言えるのですが、あえて「消極的守備」と言い換えても良いかもしれません。
「万引き合法化」の話と「強盗」の譬え話は、両方とも「リスクから離れる」というだけの話ですが、政治問題に持ち込まない限り個人が対処可能なのは、この手段が最も安易なのです。
これこそ「自分は自分、他人は他人」という立場、ある意味「祓い清め」とも言える「自他の分別」です。
現実的には、時によって住む場所を変えたり、犯罪者の目につかないようにするのは難しいかもしれません。
しかし予測可能なリスクから未然に距離を取ることは可能であり、これらの行動は「精神的」な面で十分に対処できます。
「雨、風、岩、いよいよ荒れの時節じゃ、世界に何とも言われん事が激しくなるぞ、病も分からん病が激しくなるぞ、食うべきものでない悪食うて生きねばならん時来るぞ、悪を消化する胃袋、早くせねば間に合わん、心の梅干し大切(黄金の巻・第五十四帖)」
「食うべきではない悪(毒)」を食べて生きなければならない時こそ、現代と言えます。
誰しも「悪」をある程度は受け入れて暮らさなければならない時代だからこそ、「甲乙」をつけることはまして大事なのです。
「祓い清め」こそが「神の道」であることを忘れてはいけません。
では最後に、ここまで言及して来なかった「悪」を放置して良いのか、について取り扱いたいと思います。
「悪人」というのは、よほど手痛い失敗をしない限り、失敗するまで同じ手口で似たようなことばかりやるものです。
喩えるなら、有り金を全部ギャンブルに突っ込んでいる人が、大富豪になったとしてもいつスッカラカンになるかは時間の問題です。
「ミイラ取りがミイラになる」とまでは言いませんが、今の世の中でさえ民事・刑事を完全にスルーできる状況ではなく、「因果応報」という法則は十分働きます。
個人的に、「悪人」は放っておいても「悪人を勝手に引き摺り出すクラスタ」というのは常に一定数存在すると思っています。
私は、わりと「悪の栄えた試しなし」という勧善懲悪モノの時代劇の台詞は的を得ていて、こうした「盛者必衰」こそ歴史の「花」ではないかと達観している節があります。
「悪は長続きしない」というのは、神がこの世をお造りになられた時から決まっているからこそ、「善」を志向する「弥栄の世」が「永続性」をもつ理由も説明がつくのです。

