楽太郎です。
先ほど、別サイト「絵語」の方で「過去の乗り越え方」という記事を投稿しました。
上記の記事は、サラッと読める範囲に一応まとめましたが、とても大事な気づきだったので、改めて詳しく書こうと思いました。
「絵語」では500字くらいの本文にまとめることをコンセプトにしてたはずが、最近は文章を練り直して1000文字以内に無理やりまとめるようになっており、私の長文癖が出始めてきてしまいました。
以前「考えがまとまった文脈にならないため、長文を書くのが難しくなった」ことを理由に「招神万来」の更新頻度が落ちていたのですが、今後は「絵語」をコンセプト通りの運用に戻し、本サイトの投稿数を元に戻そうか考えています。
近況も含め後ほど言及しますが、21日「夏至」から「変容」のエネルギーが強まっており、この流れを汲んだ動きになりそうです。
私自身は5月の新月あたりから本格的な「大掃除」に突入したようで、今日に至るまで絶不調続きだったのですが、その霊的変化もここ数日で落ち着きの兆しが見えてきました。
夏至の「変容」とは本質的なものではなく、あくまで「様相」としての性質があり、どちらかと言えば「アプローチの変更」というニュアンスに近いものです。
22日現在、星回りは「太陽」が「蟹座」の位置に入っており、ここには移動する直前の「木星」がいます。
「蟹座」は「内面性」が強く出る象意であり、今は「方針を考える時期」なのかもしれません。
色々と思索した上で「やっぱりこうだよな」と考え直した動きが、これから秋分までのメインストリームになるのだと思います。
15日双子座新月から「成長」というテーマに切り替わり、それぞれに「歩みを進める」というイメージが強く、やはり個々の「ムーブメント」がこれからの鍵かもしれません。
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さて、前置きはこの辺で本題に移りたいと思いますが、現在始まっている「天下の大掃除」に関して、まだ十分にお伝えしていないことがあります。
「絵語」の方で少し触れた、日月神示「磐戸の巻・第十一帖」の内容に関してです。
「心にメグリ積むと、動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされていて、それで誠の神の臣民と申されるのか、分からんと申してあまりであるぞ、ゴモクを吐き出せよ、その儘ままにしておくと段々大きくなって、始末出来ない事になって、終しまいには灰にするより、手なくなるぞ、石流れて、木の葉沈むと申してあろうが、今がその世だぞ」
まずご説明しなくてはならないのは、この「ゴモク」とは何なのかということです。
【五目】を辞書で引いてみると、「① 五つの品。五種。② いろいろなものが入りまじっていること。ごたごたしていること。また、そのもの。(日本国語大辞典より)」とあります。
「日月の巻・第十九帖」には、こう書かれています。
「今のやり方、考え方が間違っているからぞ、洗濯せよ掃除せよと申すのは、これまでのやり方、考え方をスクリと改める事ぞ、一度マカリタ(死んだ)と思え、掃除して何もかも綺麗にすれば、神の光りスクリと光り輝くぞ、ゴモク捨てよと申してあろうがな、人の心ほど怖いものないのだぞ、奥山に紅葉もみじある内にと申す事忘れるなよ」
神示に言う「ゴモク」とは、「掃除洗濯」ができていない状態、「やり方考え方」が間違ったままということです。
こうして、一旦「命を捨てる」くらいに心を改めて、「人間心」から「神心」に近づくことを「掃除洗濯」と呼ぶのだと思います。
「色々なものが入り混じっていること」とは、「祓い清め」が出来ていない状態を意味し、スピリチュアル的に言えば「未浄化」ということです。
つまり、自分の腹の中に「ゴモク」が詰まったままでいると、いずれ「動物のイレモノ=獣」に堕ちてしまい、「獣の道」を進む側の人間になってしまうのではないでしょうか。
だからこそ、私に入っていた身魂の「大掃除」は、徹底的にゴモクを吐き出す性質のものであったと言えます。
言わば、自分の「心の闇」に目を向ける行為であり、この深い内省と実践がそのまま「身魂磨き」になっていたのだと思います。
「絵語」のタイムラインを辿って頂くと、その兆候が色濃く現れているはずです。
この「心の闇」というのが、今回の記事のメインテーマであり、ここに「光」を当て過去を「乗り越える」ことが、身魂の「大掃除」に繋がるのです。
「絵語」の方には、こう書きました。
「「心の傷」というのは、自然に時間が癒やしてくれることはありますが、自分が「癒そう」としなければ何十年経っても生乾きのまま残ってしまうこともあります。
私たちは、その記憶と向き合うことが辛すぎて、「嫌な出来事」を「嫌な記憶」のまま心の奥底に眠らせてしまうために、治るはずの傷がいつまで経っても癒えないのです。」
私たちは、生きていく中で上手くいくことばかりではなく、大抵は手痛い失敗や恥を晒しながら、少しずつ「学び」を大きくして成長していきます。
その過程で理不尽な出来事や悪どい罠と逢い、容認しがたい不幸に襲われては、心に「傷」を負ってしまいます。
この時、大抵の人はショックのあまり現実を直視し切れず、「折れた心」の分だけ胸の奥底に仕舞い込み「無かったこと」にしようとしてしまいます。
「胸の奥」に押し込んだ「念」は、「心のゴミ捨て場」とも言える場所に投げ込まれたまま忘れ去られ、「思念の生ゴミ」として堆積していきます。
忘れ去られた「痛み」は、見えないところで「心の闇」を作り出し、「悪い念」を腹に抱えるようになってしまいます。
これが神示に言う「ゴモク」です。
私の話をすれば、「身魂磨き」をサボってきたつもりはありませんし、一応はスピリチュアリストとして「自己浄化」や「波動調整」もしない訳ではありません。
しかし、自分が考えてもいないのに神様に悪態をついたり、人を悪ざまに評してしまう瞬間はあって、私が気づけない身魂の「曇り」や「悪い念」がどこにあるのか、ずっと不明のままだったのです。
「黄金の巻・第七十三帖」には「悪の霊はミゾオチに集まり頑張るぞ」とあり、「悪い念」は実際、ちょうど胸の下あたりでムカムカする不快感として現れがちです。
言ってみれば、私はこの「悪い念」を消し去るために数週間かけて四苦八苦していた訳ですが、何十年もかけて積み上がった「ゴモク」は、いくら浄化しても限りなく湧き上がってくる感覚すらありました。
この「悪い念」の原因を探っていくと、まあ自分の浮かばれぬ人生の大半を思えば疑問の余地はないものでした。
この社会はなかなか「素直」に生きることは難しく、善良であろうとすれば「バカ正直な奴」と見込んだ悪人に利用され、めちゃくちゃにされてしまうのもありがちな話です。
その煽りを受け「強かに生きよう」とすれば、かえって「悪人」の真似をしなければならず、それはそれで「悪の社会」でバチバチにやらざるを得なかったり、とかく「闇の世」に生きるしかありませんでした。
そんな「やりづらさ」を常に抱えていると、身も心も生傷は絶えず、知らずのうちに「負の念」を背負わざるを得なかったのです。
ここで「心の闇」を真正面から見つめる時、浮かび上がる最低最悪の出来事や後悔が深すぎる記憶を避けて通ることはできません。
その瞬間湧き上がる、ドス黒い感情を誤魔化さずに「光」に当てることがいかに難しいかは、そこまで内省を深めたことのある人しかわからないかもしれません。
そこで、「心の傷」とどう向き合うか、という話になります。
過去の「後悔」は、大抵の場合「ああすれば良かった」とか、「今さらどうしようもない」こと自体を嘆き、また憤慨してしまうことが殆どです。
「過去を変えることはできない」とわかっていても、心の痛みに嘘はつけないために延々と苦しみを抱えてしまうのです。
「絵語」の方では、こう書いています。
「「過去を乗り越える」には、まず「現在の自分」と「過去の自分」は違うものだという認識を持つことが大切です。
人は、一つの「肉体」を持ち続けるからこそ、「過去」と「現在」の自分が繋がっていると感じます。
けれど、「過去の自分」は「昔のあの時代」だから成立していた人格であり、当時の時代と共に「今はもういない」存在なのです。」
「過去の自分はこの世にいない存在である」と言っても、30秒前の自分と比べて「何が違うんだ」という話になるかもしれません。
しかし、仮に10年前や四半世紀前の世の中と比べて、「影も形も残っていないもの」は思い浮かぶはずです。
私の話をすれば、昔コテンパンにされた職場のトラウマが大きすぎて近寄れなかったのですが、数十年ぶりについでに出向いたところ、存在した気配すらないという出来事に遭遇して「過去とはこんなものなのか」と悟ったのです。
自分では手痛い記憶が昨日のように思い出せるのに、実際の現場に赴くと何の痕跡もなく、まるで「幻」のように感じました。
この時、もはや「過去」は存在せず、自分の頭の中で再現された世界にあり、当時の社会も人はもとより、自分ですら今は違うものになっていることに気づいたのです。
「昔」と「今」を物質的に「同じもの」と考えるからこそ、そこに「連続性」を感じてしまうのですが、「過去」と「現在」を混同すすることで「錯覚」が起こります。
例えば、一世を風靡したアーティストが再結成しても「なんか違うな」と感じたり、昔の恋人と再会して当時と同じ感情を抱けなかったり、古い友人と久しぶりに話をして、全く噛み合わなくて愕然とすることなど、よくあると思います。
これは「過去は再現可能である」と錯覚し、「あの頃の気持ちに戻りたい」という欲求に惹かれてしまう出来事ですが、時と場所と相手が変われば同じ状況は完全に再現しようがないという事実を無視した行動です。
個人に当てはめるなら、自分の肉体一つに「過去の自分」を見出すからこそ、「現在の自分」と同一不変のものと感じます。
しかし、「過去の自分」は昔の社会状況や環境、周りの雰囲気やリテラシーを含めて作り出された「人格」であり、また年齢や心身の状態も合わせれば、今と全く同じであるはずがないのです。
けれど頭の中では、「全く違う状況の自分」に現在の主観を当てはめて考えるからこそ、当時の出来事に対する「解像度」に変なバイアスが掛かってしまいます。
これが「自分だけの苦しみ」を作り出し、どうしようもない過去への後悔や憤怒を延々と抱き続けることに繋がります。
当時の社会や人々が同じ状態にないということは、「過去の自分」も既に「もうこの世に無い」のです。
言い換えれば、「死(マカリタ)」ということであり、「過去の自分」は「現在」に至る間のどこかで姿を消していると言えます。
人が「過去」の状態となれば「死」に等しくなるとしたら、「現在」は常に「生まれ変わった自分」であるということです。
「死んだ人」に対して行うのは「供養」ですが、供養とは「その人の想い」を背負うことでもあります。
生きている自分には、その「想い」を叶えることができるはずです。
「過去の自分」は死に、常に生まれ変わりの状態にあるのが「自我」と言えます。
そんな「現在の自分」が、存在しない世界にしがみついてこれからの人生を台無しにするのは、本当に割りに合わないのです。
今、自分ができることをすれば「生まれ変わる先の姿」を選択でき、「生まれ変わり後の未来」を作れるということです。
だからこそ、いくら辛くても「過去」に囚われ続けてはならないのだと思います。
「心の傷」を癒し、辛い過去を乗り越えろためには、無理にポジティブに解釈して「学び」に変えるのはかえって逆効果です。
まず「過去」は終わったものだということを認識し、その「実感」を徐々に掘り下げていくことです。
そうするうち、次第に辛い記憶を客観視できるようになり、冷静に見つめる余裕が生まれてくるでしょう。
過去の記憶を「経験の一部」と考えられるようになってから、「学び」にする前向きさに変えていけば良いのだと思います。
そして、複雑な体験によって得た「学び」は「実践」によって活かされるのです。
人や世の中に自らの知見を活かす時、「心の傷」が「人生の糧」となり、血肉となり自分の力に変わっていくはずです。
これが、私の身につけた「過去の乗り越え方」です。
正直、私を散々痛めつけた輩と突然出会って普通にしていられるか自信はないのですが、ここまで来て「嘘でした」という訳にはいかないでしょう。
けれど、私の苦い経験をただの「不運」と片付けるにはあまりに救いがなく、どうせなら今もどこかで傷ついている誰かのために、私の知見をお話ししようと思ったのです。
この世の中は「上手くいかない奴が悪い」という風潮ですが、上手くいくやり方に手段がない仕組みだからこそ、理不尽に傷つく人が出ることを指摘する人はいません。
どうせなら私が痛い目を見た分、むしろ「痛い目」を人に見させないような世の中にしていきたいのです。
それこそ、私が自分の手を汚してまで「悪」と渡り合った甲斐があるというものです。

