楽太郎です。
2月17日牡羊座新月から「大峠・八合目」に入ったとお伝えしていますが、日月神示「春の巻・第二十七帖」には「八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ、それ迄は誰でもよく分からんもんじゃ」という文面があります。
特に最近の報道をご覧になられて、これから世界はどうなりそうか、凡そ見当がつくようになってきたのではないでしょうか。
ここ最近の情勢について、以前のような批判的論調を避けることの理由は既にお伝えしていますが、ここまで「世界線の二極化」が現象化してしまうと、もはや「批判してもどうにもならない」という所まで来た、というのが私の率直な感想です。
もちろん「アンスロピックのMythosが”核”をコントロールできるようになったので、安全保障の概念が完全に崩壊した」とか、滅茶苦茶なナラティブが広まりつつあったり、これはこれで徹底的に論評したいところでもあるのですが、残念ながらそういったテーマに関わっている時期ではありません。
日月神示では、現在の状況をメディアより的確に表現する文章が垣間見られたりします。
「雨の巻・第十四帖」からです。
「神の国は誰が見ても、どう考えても二度と立ち上がれん、人民皆外国につく様になって、この方の申した事、神示に書かせた事、皆嘘だと申す所まで世が落ちてしまってから始めて神力現われるのだぞ、人民早合点して御座るが、九分九分九厘と申してあろうがな」
現在の状況も、もう少し国のトップがまともなら陥らなくて良い苦境は山ほどあるのですが、これは敢えて「九分九分九厘」のために用意された「御用」と考えて間違いないと思います。
私はこの状況も「日月神示のシナリオ」の通りと考えており、神示の文脈は「天明氏に神示が降りた戦中戦後数年」を念頭に置いたものとするなら辻褄が合わず、むしろ「2026年現在」に当てはめた方がしっくりくる描写が多いのです。
「雨の巻・第九帖」には、こうあります。
「今のどさくさに紛れて、悪魔はまだえらい仕組み致して上にあがるなれど、上に上がりきらん内にグレンとなるぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなる事は世の元から分かっているからもう無茶な事は許さんぞ、軽い者程、上に上にと上がって来るぞ、仕組み通りなっているのだから、臣民心配するでないぞ、今度神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みを外すでないぞ、神は気をつけておくぞ」
この文脈は言わずもがな「心で受け取って下さい」と言う他ありませんが、こうお伝えしても察せられる程度には「現象化」していると言えるのではないでしょうか。
今になって「行くところまで行くしかない」という感じで、批判から外れ「軌道修正」しない方針を取ったのには、こういう理由があるのです。
ただ「大峠・八合目」に入ったと同時に、「天下の大掃除」が始まっています。
具体的には昨年12月22日の「冬至」と考えられますが、本格的に始動したのは3月20日「春分」だと思います。
春分点を境に「世界線の二極化」は、より具現化を進めています。
5月からは「上昇気流」が発生し、それぞれの世界線における各々の「上昇」に拍車が掛かりました。
私の別ブログ「絵語」では、その経過をリアルタイムで詳述してきましたが、同時に「大掃除」が私のところにもやってきて、「禅問答」に近い「身魂磨き」の様子も垣間見られるかと思います。
「神世」の側に進む人々にとっての「上昇」は、主に精神面や目に見えない部分での変化に現れているはずです。
ここで、むしろ「手放し」を天から促された方が多いのではないでしょうか。
世界線が「二極化」するということは、これまで「白黒両面=灰色」の生活から「分離」が起こるということであり、この「取捨選択」の内容は人それぞれでしょうが、より自分の生き方に「最適化」する流れになっているはずです。
自分の思いや感覚、趣味嗜好に関わらず起こった変化であり、「霊的」に訪れる「選択と集中」こそ、これからの人生に必要な転換であったと思われます。
特に5月31日射手座満月から「選択と集中」のテーマ化は強まっており、今月30日の満月までは心理面に強く現れてくるでしょう。
そして今回の本題となる「15日双子座新月」と21日の「夏至」は、これらの「世界線の二極化」に、よりアクセルが掛かる通過点になると考えられます。
「双子座」は、占星術的に言えば「コミュニケーション」や「社会性」の象意を持つ星座とされます。
ただ世界は「分断」に向かっているため、この星座の「双子」は「それぞれの道を歩む」という段階に入っていると言えます。
そして数日後に迎える「夏至」は、おそらくこの流れに沿った形で起こるでしょう。
「夏至」は昼の日の長さと、日暮れの時間帯が等しくなる季節分点です。
まさに「双子」という印象ですが、この兄弟が「夏」を迎えるということは、それぞれの「成長期」と取ることもできます。
私は少し先の気場を読み取る時は、「日本列島がどう視えるか」を軸にしています。
この時、私には日本がまるで「空中」にあるかのような、「上昇」しているイメージを強く抱きました。
現実の日本社会はさて置き、「日本列島」自体は依然として「気場」をどんどん高めていると言えるのです。
だからこそ、「神世」を選んだ人々にとって、「霊的上昇」が時期に準じたものとなるのは不思議なことではありません。
「双子のもう一人」、いわゆる「人世」を選択した人々にとっての「上昇」は、どちらかと言うと物質的で、目に見えるものとして現れるはずです。
しばらくは、この「平行線」を辿る状況が続くことになりそうです。
普通に生活をしている日本人にとっては、悲喜交々の地味な暮らしが続くでしょうが、この「臥薪嘗胆」こそ次のターンへの「準備段階」と前向きに受け止め、切磋琢磨する時間かもしれません。
しばらくの「エネルギー予報」はこんな感じですが、この間に私たちはどういう立場から臨めば良いのか、ここからはそれを書いていきたいと思います。
日月神示「月光の巻・第五十八帖」には、こう書かれています。
「春が来れば草木に芽が出る花が咲く、秋になれば葉が枯れるのじゃ、時節によく気をつけて、取り違いせん様に致してくれよ、時節ほど結構なもの無いが、また恐いものも無いのであるぞ、丁度呼吸の様なもので一定の順序あるのぞ、吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ、これが神の用はたらきであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん」
つまりは、今の世が「九分九分九厘」まで「悪のターン」なのも、「吸」の順序だからであり、ここから「呼」に至るためと考えるべきでしょう。
これが「神にも自由にならない」からこそ、いつでも動きそうな世の中が、奇妙な「膠着状態」で歩留まりしていると考えられないでしょうか。
つまり、これが「神々の御計画」における大事なシークエンスだからこそ、今の非対称性の顕著な情勢に繋がっていると言えます。
だからこそ、一方では経済低迷に見舞われながら「手放し」を天から促され、霊的には「上昇」という経緯を辿る人々と、権威や収益性を増大させ、より「集中」を強める人々との対極的な流れが、目に見えるレベルで「現象化」しているのかもしれません。
もちろん、この説明では「金持ちが悪い」みたいに受け止められかねないのですが、そうではありません。
「岩戸を閉じる御用」の人々は、往々にして「出る杭を潰す側」に立っていることが多いのであって、誰しも「我良し」になれば自分に都合良く立ち回るだけのことでしょう。
そして大体の人、7〜8割の人は未だ「中間」の領域にあり、「どちら側にいる人か」を第一印象で判断するのは難しいはずです。
「この人はどっち側か」と考えることに大した意味はありませんし、むしろどちらであっても「善悪」ではなく「幸不幸」でもなく、「自分で選んだ道」なので、それを問うこと自体が「野暮」だったりします。
「黒鉄の巻・第三十一帖」には、こう述べられています。
「人間は色とりどり、それぞれの考え方を自由に与えてあるのだから、無理に引っ張ったり教えたりするでないぞ、今あるもの、今生きているものはたとえ極悪だと見えても、それは許されているのであるから、あるのであるぞ、他を排すでないぞ」
「この人はどうなのか」と思っても、その人を言い聞かそうとしたり、その後のことを言い当てようとしたりしてはなりません。
なぜかと言うと、その人の身に降りかかるであろう出来事は、本人に「気づき」を与える大事なイベントとして用意されているものだからです。
この宇宙は「学び」のために用意された世界であり、人も神も体験によって「学び」を深めることで、「弥栄=成長」するという仕組みで成り立っています。
つまり、それぞれの人には「学び」に対するスタンスがあり、学びのための「順序」があるからこそ、その流れを邪魔するのは道理に反することになりかねないのです。
私も、これから「痛い目を見そうだ」という人が目につくと気にはなりますが、そんなことよりも「自分」のことを意識するようにしています。
その人がどれだけ未熟に思えても、気づきを得るまで続く「無知」の状態は、むしろ「学び」のための準備期間として考えれば、これも「学び」の一部として大切な時間であることがわかります。
これまで「真逆」のことをやっていればいるほど、「気づき」に至る時の衝撃は大きく、その反発が強いほど「経験」の質は深くなります。
むしろ、その人が無意識に「学びを深くするために準備期間を多く取っている」と考えれば、少し考えると分かりそうな「地雷」を敢えて踏みに行こうとする心理も説明できたりするのです。
私のブログをご覧になられる方なら尚更、元から経験を積んでこられて、スタートが早いだけ「先に進んでいる」と言えるのです。
当然、最初からコースから外れている人や、ようやくスタートを切ったばかりで、のらりくらりしている人を見れば、若干腹が立つ部分もあるかもしれません。
しかし、自分が何周か先を行くいるからそう思うだけであって、周回遅れのランナーを批判する根拠は一つもなく、相手からすれば全く筋違いの物言いだったりするでしょう。
だから、自分から見て「正しくない」と感じても、この時期からは温かい目で見守るべきなのだと思います。
もう既に「世界線」は決定し、ある程度「具現化」している部分もあるでしょうが、大抵の人はまだ「気づき」を待っている状態でもあります。
とにかく、自分の判断で人を裁こうとはせず、例えそうだと思えても「この人の選択だ」と考えて尊重することです。
ここで「自分は自分、他人は他人」と切り分けることが「祓い清め」であり、この「戦」のあり方なのです。
「自分の正しさ」では、かえって「善の外道」に陥りかねない、これが「日月神示」の肝の部分だったりするからです。
この「大峠=三千世界の大洗濯」の目的こそ、この物質宇宙を「霊界化」する試みにあり、これまで雑多な波長域が混在した世界だったからこそ、無意味な争いが地上で繰り返されてきました。
「岩戸開き」後の世界は、次元上昇した地球を伴って、「波長」や「同次元」という霊的な条件が主要な宇宙法則として働くことになるはずです。
その時「同じ波長を持つ」ことの巡り合わせが、人生を決める要因になるでしょう。
人々の「因縁」が霊的波長によってある程度決定づけられることで、今のSNSにあるような「クラスタ」のコミュニティが、実社会で形成されるようになると考えられます。
「似た者同士」が集まりやすくなるからこそ、自分のもつ「波長」は大事であり、もし自分の中に「争い」の波長があれば「争い」の現象を招くことになりかねません。
だからこそ、今は身魂の「大掃除」が大事な時期であり、それが「天井に近い方から」始まっていることの真意ではないでしょうか。
つまりは「神世の礎」となるような人たちだからこそ、「我良し」の波長を持っていてはいけないのだと思います。
「風の時代」とは、同じ波長を持つ人との出会い、魂の繋がりを求めて人生の「旅」をする時代のことです。
実社会でそういう人に巡り合うのは希少であり、心通う人やコミュニティに辿り着いてから、ようやく長い旅が終わり「心の住処」を見つけられる、そんな時代です。
今の状況は、「天国的世界」を選んだ人たちほど孤立しやすい状況かもしれません。
この時期だからこそ、手段はどうであれ同じ波長の人を探して繋がることも悪くはないと思います。
とにかく、自分の「心のあり方」がそのまま人生に現れる、次元上昇を辿った地球はもう、そんな時期に入ったのかもしれません。

