楽太郎です。
現在のアメリカのみならず、世界経済についてお話したいのは山々なのですが、今回は「日月神示」を中心に扱い、それもかなりの長文になりそうなので、喫緊の話題に関しては割愛します。
膠着状態に陥ったイラン戦争と、なぜかリスクテイク全開で史上最高値を更新し続けているS&P500に関しても「尻尾」が見えてきた感じはするのですが、裏付けを待っている状態ですので、お待ち頂きたいと思います。
さて今回の本題に入る前に、日月神示の「富士の巻・第二十四帖」にある節を全文引用します。
「富士を目指して攻め寄せる、大船小船あめの船、赤鬼青鬼黒鬼や、オロチ悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空蔽い、海を埋めて忽ちに、天日暗くなりにけり、
折りしもあれや日の国に、一つの光現われぬ、これこそ救いの大神と、救い求める人々の、目に映れるは何事ぞ、攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨降らす、火の雨なんぞ堪るべき、誠の神は無きものか、これは堪らぬ兎も角も、生命あっての物種と、兜を脱がんとするものの、次から次に現われぬ、
折りしもあれや時ならぬ、大風起こり雨来たり、大海原には竜巻や、やがて火の雨地震ふるい、山は火を噴きどよめきて、さしもの敵も悉く、この世の外にと失せにけり、
風止み雨も収まり、山川静まり国土の、所々に白衣の、神の息吹に甦る、御民の顔の白き色、岩戸ひらけぬしみじみと、大空仰ぎ神を拝み、地に跪き、御民らの目に清々し富士の山、富士は晴れたり日本晴れ、普字は晴れたり岩戸開けたり」
この講談調の一節は、読むからに「九分九分九厘」攻め込まれた神国、我が国日本で起こるであろう予言となっています。
私はこの時を「2029年」か直前の年に起こると考えており、それまで日本に対してどんな悪いニュースがあっても不思議ではないと考えています。
「地つ巻・第六帖」には、「神の国八つ裂きと申してあることが愈々いよいよ近づいたぞ、八つの国が一つになって神の国に攻めて来るぞ」とあります。
この比喩に関して、実際に日本が「侵攻」や「八つ裂き」の憂き目に遭っているかについて、感じ方は人それぞれで構いません。
上記の「富士の巻」の講談は、まるで日本が敵に攻められた上に縦横無尽の天災に見舞われるように一見読み取れます。
しかし、よく読むと「火の雨」も「大風」も「竜巻」や「地震」も、神国に攻め寄せてきた敵の大軍だけが見舞われる状態であり、「兜」を脱いで逃げ惑うのも彼らで、日本の臣民は「救いの大神」がご顕現なされたら自動的に救われた形となっています。
私の神示解説では、「荒れの神」「雨の神」「風の神」「岩の神」「地震の神」など災害を連想される神々は、「伊弉諾命・伊奘冉命・撞賢木向津姫命(天照皇大神宮神)」の三柱のバリエーションで構成されています。
「天の日月大神」「地の日月大神」としての御三体の大神と、「天地」を総合しての「大日月地大神」の御顕現こそ、この物語の「救いの大神」の正体です。
御三体の大神の主体は「天之日月大神」であられる訳ですが、この神様は「ス(御統)の神)」の皇位を伊奘冉命から継承した伊弉諾命御自身であり、残る二柱の女神は「補佐」でありながら、御一体の神格という形を取ることになります。
つまり、伊奘冉命と撞賢木向津姫命と御力を合わされた伊弉諾命が「救いの大神」として御顕現なされるために起こるのが「地の岩戸開き」なのです。
この「地の岩戸開き」がなぜ2029年なのかについては、別途過去記事を辿って頂きたいのですが、リアルタイムの時勢に近い記述のある箇所もあります。
「日月の巻・第三十八帖」からです。
「大きアジアの国々や、島々八十やその人々と手を握り合い、神国の光り輝く時来たと皆喜びて、三千年神の御業の時来たと思える時ぞ、神国のまこと危うき時なるぞ、
夜半に嵐のどっと吹く、どうすることもなくなくに、手足縛られ縄付けて、神の御子等を連れ去られ、後には老人不具者のみ、女子供もひと時は、神の御子たる人々は、悉く暗い臭い屋に、暮らさねばならん時来るぞ、
宮は潰され御文皆、火にかけられて灰となる、この世の終わり近づきぬ、この神示、心に入れてくれと申してある事分かる時、愈々いよいよ間近になったぞよ、出掛けた船ぞ、褌ふんどし締めよ」
この「大きアジア」こそ、中国やインド、東南アジア、EU諸国と考えることができます。
アメリカ大陸のみならず、その他の国々と「グローバル社会」を形成することで、日本は国際平和に貢献し、世界的に重要なポジションを持つに至りました。
しかし奇しくもこれが「神国のまこと危うき時」であると神示には語られます。
実際に女性や子供が連れ去られたり、「焚書」や神社仏閣が取り壊される事態は起きていないため、ここは的外れなのではないかと思われるかもしれません。
この比喩は「霊的」に捉える必要があり、本来「◉」の霊性を持つ日本人(神の御子)は、幽界的な魂「◯」と霊性(血統)が混ぜこぜになることで「神の道」を見失い、幽界同様の社会で働く男性は特に顕著で、女性や子供、老人や障害者の方たちも「・(ヒ)」の光が薄い場所で暮らさねばならなくなった、そう説明できます。
そして、「夜半の嵐」というのが「地獄の三段目」に突入した我が国であり、正念場の20年の中で「大峠・八合目」に入った現在と思われます。
異常な円安と物価高、政治的な膠着から先の見えない不安定な社会状況は、まさに直感的に神示の描写に言い当てられている印象すらあります。
また「グローバリズム」の名の下に、内外から日本の国土や国富を「膾(なます)にする」勢力も存在します。
批判を恐れず言うならば、私は「国際協調」のスローガンと共に推し進められるグローバリズムこそ、「日本を八つ裂きにする計画」の本筋ではないかと考えています。
「黄金の巻・第八十八帖」には、こうあります。
「日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスじゃ、分け隔てするのは神の心でないと申す人民沢山あるが、世界は一平じゃと申して同じ事じゃ、同じ神の子じゃと申しているが、頭は頭、手は手、足は足と申してあろうが、同じ事であって同じで無いぞ、悪平等は悪平等ぞ、世界丸潰れの企みぞ、この道理よく心得なされよ」
また「秋の巻・第十六帖」では、こう書かれています、
「統一と言うことは赤とか白とか、一色にすることでは無いぞ、赤もあれば黄もあり青もあるぞ、それぞれのものは皆それぞれであって、一点の ・でくくる所に統一あるぞ、くくると申して縛るのではないぞ、磁石が北に向く様、総て一点に向かう事であるぞ、これを公平と申し、平等と申すのじゃ、悪平等は悪平等、一色であってはならんのう」
国境や文化の枠を超え、あらゆる政治的方針を共有する「グローバリズム」こそ、日月神示に言う「悪平等」的な統一です。
また「男女」の境界を自己申告制にすることで曖昧にし、いかなる容姿の人にも「美」の評価を当てはめる価値観こそ、認識としての「区別」を「差別」と言い換えただけの悪平等です。
このレトリックの総体が「グローバリズム」という世界丸潰れのための計画であり、神の道理に沿うことのない思想なのです。
真の「平等」とは、十把一絡げに横並びにすることではなく「区別」した上で個々を尊重することであり、真の「統一」とは、たった一つの理念によってそれぞれが纏まることであり、決して全体主義を意味するものではありません。
「グローバリズム」は、本来「◉」である性質の物事から本質「・」を抜き、「◯」にして形骸化させることで、人間らしい世界を破壊するレトリックの一部です。
本質的には、全ての物事を「◯」という骨抜きの状態にすることで「神の道」を塞ぎ、人間を管理された動物に落とし込むという悪神の意思が働いています。
ゆえに、グローバリズムはその一角に過ぎず、物事を形骸化させるあらゆる思惑には、「世界丸潰れの計画」が潜んでいます。
グローバリズムが多大な影響力を国際社会に与えているこの20数年は、我が国が次第に「日本らしさ」を失った時代と言えます。
そして隆盛が極まる昨今こそ、日本が「八つ裂き」という表現に相応しいほど社会的分断に晒されている状況を示しており、これに無意識に抗うことこそ「戦」の本質なのではないでしょうか。
こうして考えると、この数年から2030年頃までの日本を取り巻く状況が見えやすくなるように思えます。
以前の記事「日月予言の現象化」や「あと三年」という投稿の中で、2029年の岩戸開きの前後で全ての人々が「魂の仮死状態」となると書いています。
二分の人、すなわち5人に1人が「神世の礎」となるため次の世に渡り、5人のうち3人が「幽界」に心を残すがゆえすぐに神世には入れず、最後の5人に1人の身魂が「獣の道」を進みいずれ灰になる、そういった解説をしています。
2026年現在、あと3年を残して「三四五(みよいづ)」の段階を終え、「地の岩戸開き」を経て「五六七(ミロク)の世」となると考えられます。
おさらいになりますが、「富士の巻・第三十四帖」に、こうあります。
「臣民はすぐにも戦済んで良き世が来る様に思っているが、中々そうはならんぞ、
(中略)
戦済んでもすぐに良き世とはならんぞ、それからが大切ぞ、胸突き八丁はそれからぞ、富士に登るのも雲の上からが苦しいであろうがな、戦は雲のかかっている所ぞ、頂上いただきまでの正味の所はそれからぞ、一、二、三年が正念場ぞ、三四五みよいづの仕組みと申してあろうがな」
この「三年」というのは、「梅の巻・第二十三帖」に「これから三年の苦労じゃ、一年と半年と半年と一年じゃ」とあり、「至恩の巻・第十二帖」にも「この白黒まだらな時は長くは続かん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでからまた甦えられる様に死んで下されよ」ともあり、必ずしも現在の3年間を意味しない可能性はあるのですが、岩戸開きまでの「胸つき八丁」に係る期間が3年と仮定すれば、「正念場の20(19)年」の特に最後の3年間は、かなりの覚悟が必要になりそうです。
なぜ「2029年」なのかについては、日月神示解説サイト「HITSUKU」に投稿した「大峠を読み解く」という記事を参考にして頂きたいのですが、実は「黄金の巻」にもヒントが隠されていたことに最近気づきました。
「第二十八帖」からの引用です。
「三千年花咲くぞ、結構な花、三年、その後三年であるぞ、次の三年めでたやなぁ」
この文章を素直に読むと、計6年後の3年が「めでたい」、つまり「一二三(ひふみ)」から「三四五(みよいづ)」の時代を迎え「五六七(ミロク)」の世となれば、確かに6段目にはめでたいと言えます。
しかし「6年の後の3年」を経て「めでたい」世となるとも取れるので、「子の歳(2020年)を真中にして前後10年が正念場(磐戸の巻・第十六帖)」の後半10年のうち9年目で「三千年の花が咲く=岩戸が開く) 」と読むことができるのです。
「九(苦)の花が咲く」象徴たる女神が「木之花咲耶姫命」ですが、「苦の花」は「辛酉(苦の鳥)」の比喩でもあり、2029年は「酉年」であるため、「2029年」を「大トリ」として岩戸が開き、「辛酉」は「十里(トリ)立つ」こととなり、また酉年でありながら「立つ=辰年」でもあるのです。
ゆえに、2029年に至るまでの3年間が大峠の中で最も重要な期間と言えます。
この3年内訳としての1年半(2027年9月?)と後半1年半(2029年3月?)は二期に分かれると考えられます。
「紫金の巻・第四帖」では、こうあります。
「豊栄に栄り出でます大地の太神、大掃除が激しくなると世界の人民は皆仮四の状態となるのじゃ、掃除終わってから因縁のミタマのみをつまみあげて、息吹き返してミロクの世の人民と致すのじゃ、因縁のミタマには神の印しるしが付けてあるぞ」
今回のテーマである「大掃除」は、「地の岩戸開き」の前に起こることがこの文章からわかります。
大掃除の間に人々は皆「仮死」の状態となり、岩戸が開けると同時に息を吹き返して、「二分」いるとされる「ミロクの世の人民」になると書かれています。
別のところでは、岩戸開きの直後に「神世」に入る人々は「三分の一」とされる箇所もあります。
「扶桑の巻・第七帖」に、こうあります。
「三分の一の人民になると、早くから知らせてあった事の実地が始まっているのであるぞ、何もかも三分の一じゃ、大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組みじゃ、三分難しい事になっているのを天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ、堪忍のカンニン、我慢のガマンであるぞ、九⦿の花咲くぞ」
ただ、「三分の一」が残るには難しい、とも述べられています。
「松の巻・第二帖」です。
「神の国を、足の踏む所無いまでに穢してしまっているが、それで神力は出ぬぞ、臣民無くなるぞ、残る臣民三分難しいぞ、三分と思えども二分であるぞ、邪魔せん様に、分からん臣民見物して御座れ、ここまで知らせても眼覚めん臣民なら手を引いて見ていて御座れ、見事仕上げて見せるぞ、スズメはチュウチュウ、カラスはカァカァ」
本来なら「三分の一=約3分」残る人民が、身魂が曇りすぎて厳しいため「2分=五分の一」になってしまったということではないでしょうか。
「黄金の巻・第七十四帖」では、「神の仕組みの分かる人民、二三分出来たら愈々にかかるぞ」とあり、また「まつりの巻・第六帖」では「神示の分かる臣民二、三分出来たなら、神はいよいよの艮とどめを刺すなり」とあることから、神世の礎となる人々が5人に1人以上揃った時、「最後の一厘」が発動して岩戸が開くことになるのでしょう。
そして、おそらく前1年半(2027年)は「仮死に至るまでの期間」、後1年半(2029年)までは「仮死となっている期間」であり、岩戸が開くことによって新しい時代が始まると考えられるのです。
この3年間が「大掃除」の期間に当たり、このことについて「碧玉の巻・第十三帖」ではこう述べられています。
「三千世界の大掃除であるから、掃除するには掃除する道具もいるぞ、人民もいるぞ、今の有様ではいつまで経っても掃除は出来ん、益々穢れるばかりじゃ、一刻も早く日本から日本を足場として、最後の大掃除を始めて下されよ、神が致すのでは人民が可哀想だから、くどく申しているのぞ」
日本の「大掃除」を担当するのが、日月神示に「役員」と呼ばれる、奥山におられる方々なのではないでしょうか。
いわゆる「日月の民」は、二分渡るであろう神世の人々を先導する役割であり、尚且つ新しい世の礎となる人々なのだと思います。
それはつまり、私たちに掛かっているということです。
「大峠・八合目」に突入した今、すでに「大掃除」に取り掛かっているとも言えます。
「掃除」を神道的に「祓い清め」と呼ぶならば、「区別」を排除し全てを横並びにする「悪平等」の世こそ、真の調和に導かなくてはなりません。
私はこの代表格が「グローバリズム」だと思っていますが、おそらく世界を取り巻く思想的災禍は、かつて「神界」で起こったことだと考えています。
ここからは、図を用いて「大掃除」について解説していきます。
「富士の巻・第三帖」では、こう書かれています。
「アメリカもイギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも、外国はみな一つになって神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ、神界ではその戦の最中ぞ、学と神力との戦と申しておろがな」
さらに「神界の都には悪が攻めて来ているのだぞ」ともあります。
宇宙には「霊主体従」という法則があり、霊的次元で起こることは必ず物質世界で同等の現象をもたらす、と言われています。
日月神示の文中にも詳細に述べられている箇所はあるのですが、この法則を当てはめて考えると、現在の地上で起きている現象は、かつて霊的世界でも起こったと考えて良いでしょう。
「青葉の巻・第七帖」では、「時節めぐって上も下も花咲くのじゃぞ、誰によらず改心しなければならんぞ、この方さえ改心したお蔭で今度の御働き出来るのじゃ、同じこと二度くり返す仕組みだぞ、同じこと二度、この事よく腹に入れておいて下されよ」とも述べられています。
つまり、グローバリズムに代表される「悪平等の世、偽の平和の時代」とは、かつて神界で起こり、その解決をもって「岩戸開き」が神々の世界で起こった、とも考えられます。
私は、これが1945年8月上旬、「夜明けの巻」が岡本天明氏に降ろされている時、同時に広島と長崎に原爆が投下された時期にあった「天の岩戸開き」ではないかと思います。
具体的に広島長崎の原爆との因果関係はわからないのですが、何かしらの霊的な理由はあるのかもしれません。
地上で起こることが予め霊の世界で起こり、実際に神界と現界の間で約80年のタイムラグがあることを鑑みると、神界の大峠にも時系列が存在するはずです。
「天の岩戸開き」と「地の岩戸開き」の時間差が80〜90年とすると、地上世界で「天の岩戸開き」のシーケンスが始まったのは1945年以前、逆算すると1850年頃になります。
ペリーが1953年に黒船で浦賀に来航し、日本正史として「幕末」が始まった時期と一致しますが、因果関係を説明するのは難しいと思います。
日本はそれまで比較的平穏な時代が250年近く長く続いていましたが、幕末から第二次世界大戦終結までは、ほぼ戦争の歴史と言っても過言ではありません。
海外では西ヨーロッパ諸国の「大航海時代」が始まってからは、侵略戦争が絶え間なく続き、「戦乱の時代」とも呼べます。
おそらく、かつて神界にも「偽の平和な時代」があり、それ以前は形こそ違えど争乱が続いたのかもしれません。
上記の「富士の巻(1944年)」の時点では「戦の最中」とあることから、現在の我が国と同じ状況だった可能性があります。
しかし、結果として「天の岩戸」が開けたことで神界に「ミロクの世」が訪れ、平和が実現したからこそ現在、地上世界に神々が介入できるのだと考えられます。
ゆえに結論から言えば、私たちの世界も自ずと神世になるのですが、それには人力での「岩戸開き」が行われなければならず、実践を伴うゆえの難しさがあるのです。
最後に、神界で起こった「偽の平和の時代」の争乱とは何だったのか、空想を交えて話をしてみたいと思います。
「地つ巻・第十七帖」には、手掛かりになりそうな一節があります。
「誠の善は悪に似ているぞ、誠の悪は善に似ているぞ、よく見分けねばならんぞ、悪の大将は光り輝いているのだぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ、日本の国は世界の雛形であるぞ、雛形でない所は真の神の国でないからよほど気付けて居ってくれよ、一時は敵となるのだからちっとも気許せん事ぞ、神が特に気を付けておくぞ」
折しも冒頭の「富士の巻・第二十四帖」では、救いの大神よりも先に「大き光」が現れるとされ、やはり神国の敵は「光輝いている」ようです。
地つ巻の第十八帖では、「神の印つけた悪来るぞ」とあり、まして「神に近い存在」と取ることもできます。
神界で起きた災厄とは、本来は「神ではない」者たちが「神」を騙り、そうして神国に根を張ったことで起きた争乱だったのではないでしょうか。
彼らは何者かの「光の神」から力を与えられ、神に匹敵する能力を持ったのかもしれません。
「偽神」が真の神に割って入ることで、神ですら欺かれ、神界の秩序が大いに乱れたとすれば、一応辻褄が合います。
そう考えると、今この世界で起きていることと妙に符号します。
本質をすり替えるような方便が横行し、「偽物」が本物を詐称しても罷り通るような、強弁の通用する世界です。
あらゆる「悪平等」や、レトリックの裏にある露骨な作為に対し、誰しも美辞麗句を表向き受け取るだけでは「我良し」の考えに取り込まれ、「悪」に染まってしまいます。
もし天の神々すらも陥った罠、あるいは過ちなのだとしたら、人間が瞬時に見抜けないのも仕方ないのかもしれません。
しかし、これを許しておけば、世はいずれ丸潰れに陥ってしまいます。
これに抗うには、具体的に作為と「誤謬」を見破ること、そして「悪平等」に対して「区別」をしてわきまえ、その手管に対しては立ち向かうよりも、まず離れることです。
これこそ「祓い清め」なのだと思います。
日本人は、大陸人に認められたいというコンプレックスを刺激され、大陸文化の輪に入ろうとするあまり、民族的アイデンティティを失ってしまったのではないでしょうか。
これを「ナショナリズムだ、民族主義だ」と唱え、批判するのがグローバリズムです。
果たして、日本の国土と文化に暮らしてきた日本人が、日本人たろうとする価値観ではいけない理由とは一体何でしょうか。
今一度、私たちはここで問い直してみるべきなのかもしれません。


