楽太郎です。
本日20日は春分ですが、天体としての「季節分点」は深夜0時15分前位だそうです。
その頃を境に太陽は「牡羊座」に入るとされ、「挑戦」や「始まり」を象徴とする星座だけに、大峠の新たな局面を迎えるのに相応しい星回りではないでしょうか。
先日19日の魚座新月から、「浄財」が本格化したことは兼ねてからお伝えしています。
早速、世の動きも実際に変化を見せ始めてきたので、今回の記事では前半にその話を、後半には「神と獣」が分岐するきっかけとなる「神の道」について、日月神示を元に解説していきたいと思います。
さて、イラン戦争が始まりホムルズ海峡の閉鎖を受けて、同盟諸国から戦争参加を如実に拒否られているトランプ大統領ですが、高市総理が首脳会談に臨まれました。
高市首相、ホルムズで法的に可能・不可能なこと説明-日米首脳会談
この記事を読んで、会談に全く話の内容がないことにまず驚きました。
今回、マスコミでは日本がアメリカに約50兆円分の無償資金援助を行い、国内工場誘致と建設を支援した上に営業利益は全て米国持ちという、誰がどうOKしたのかわからないような売国米国支援プログラムについて、「第二弾」が検討されるのではないかという憶測も出ていました。
(※追記:「おかわり」あるそうです。)
この記事をよく読むと、「日本は軍需品の追加購入を考えている」と言ったのは日本側ではなくトランプ大統領自身であり、妄想かと疑う部分もあります。
このニュースで特に面白いのは、イラン開戦を事前に同盟国である日本に伝えなかったことに対して、トランプ氏が「不意打ちなら日本の方が得意だろ、真珠湾攻撃のアレもあるしな(意訳)」と高市総理の前で言い放ち、この瞬間に高市さんが「(コイツ)」みたいな目線を外交スタッフに向けた瞬間です。
しかも高市総理が「世界を平和にできるのはドナルドだけ」と発した言葉の意には、「アンタがさっさと戦争を終わらせたら世界は平和になるのよ(意訳)」というニュアンスも読み取れ、興味深い茶番劇会談でした。
おそらく、日本としては「偵察」というか、挨拶代わりの訪問だったのでしょうが、日本政府首脳陣が米国の現実を肉眼で見るには良い機会となったのかもしれません。
最も、欧州5カ国と共同でイランを非難したことは、イラン側と調整してタンカーの安全航行を保障する機会を取り逃がしたように思いますが、そこはプロの世界ですから素人が口を挟むことではありません。
奇しくも、高市総理が渡米している期間中、米国株式指数は1日かけて10ドルほど下落していました。

上図が本日20日付のS&P500のチャートですが、米国時間19日の取引はほぼ揉んでる状態、16日時点から比較すると20ドル近い高低差があります。
これには、どうも原油価格の上昇とFRB(アメリカの中央銀行・連邦準備制度)の利下げ観測が絶望的になったことの「米国債売り」に繋がっており、債券に連動して株価も下がっているようです。
米利下げ「年内なし」の見方拡大、全シナリオで最も高い確率-債券市場
ただ、株式と債券市場の「ザラ場」の下落より、ずっと深刻な状況にあるのは「金融市場」かもしれません。
JPモルガン、顧客確認上の理由で中国人投資家の口座を閉鎖-関係者
この報道では、AIブームの流行りに乗ってIPOで好調な滑り出しをした広告系IT企業「アップラビン」の大株主であり、有名な中国人投資家の個人口座を、JPモルガン・チェースが「凍結」したそうです。
JPモルガン・チェースと言えば、スイスのUBS銀行グループと共に、香港のインサイダー事件に関わった「インフィニ・キャピタル」という、元モルガン・スタンレー行員の設立したヘッジファンドと直前まで取引をしていたとされます。
おそらく「アップラビン」の大株主である中国人投資家と香港のインサイダー事件に関係する可能性があり、色々と司法が動いている気配があります。
奇しくも、インドの大手銀行「HDFC」の会長が、何かと抽象度の高い理由をつけて18日付で突然辞意を表明したそうです。
インド民間銀行最大手HDFC、会長が突然辞任-倫理面で懸念と説明
いつも解説しているように、「グローバル経済」は世界中の金融ネットワークが国境や経済文化を越えた投融資の結びつきを中心とする経済システムです。
イギリスの住宅サブプライムローン会社「MFS」の破綻劇にスイスのUBSやアメリカのジェフリーズなどが関わっていたように、特定の外国企業がどういった影響をネットワーク全体に及ぼすかは未知数です。
こうしたプライベート・クレジットを巡る投資業界からの懸念は根深く、どうもその温床にAI開発を含むソフトウェア企業群の債務状況にあることは言うまでもありません。
だから、先日のS&P500の下落傾向に関しては投資家の不信感も燻っており、この閉塞感を打開するには、やはり「戦争終結」以外のカードはないのではないでしょうか。
しかし、元グリーンベレーの隊員で米国テロ対策センター長の抗議の辞任を見てわかる通り、イスラエルと軍事ロビーの圧力で始まった戦争は、イスラエルと軍事ロビーだけが終わらせられるという側面もあるでしょう。
もしトランプ大統領が彼らの言いなりなら、現段階で泥沼化しているイスラエルが簡単に「やめる」と言うはずがなく、彼らからして見れば「お財布代わり」に使っている米国経済が大丈夫そうに見えるうちは、誰も戦争をやめたがらないのではないでしょうか。
もしかすると、米国株式市場が一度ペシャッとなって、ようやく「戦争終結」が見えてくるのかもしれません。
私は、そんな未来がそう遠くないような気がしています。
*
さて本日の春分から、昨年3月20日に分岐した「神と獣」の世界線が、いよいよ具現化してくる段階に入ります。
昨年の時点では、「日月神示」の読みは進んでいなかったので、本ブログでは「神世と人世」という表現をしています。
この世界線の「二極化」は、スピリチュアル界隈では広く認知されており、海外でも「アセンション(次元上昇)」の一環として語られています。
私の文脈では「大峠」という三千世界の3000年に及ぶ「闇の世」を切り拓くために通る「道」であり、その過程で「次の世に渡れる身魂」と「渡ることができない身魂」の二つに分かれます。
神示では、5人に1人くらいの割合で後者が存在し、残酷なことに「獣」はその後、身魂が「灰になる」と語られています。
具体的に「肉体的死」が訪れるとは限らないと思いますが、この部分はいくら読んでもそれ以外の解釈はできず、良いように捉えることは難しいように思います。
ただ、順当に考えれば「魂」の仮死状態から大神から与えられし「分御霊(わけみたま)」の消滅を意味するとしても、本当の意味での「死」は肉体の絶命を伴った後と考えられるため、死後に霊界に上がることができず、犬や猫のような魂の循環に入ることになるのではないかと私は考えています。
つまり本来の「霊人」の姿に戻ることはなく、天界に帰って「輪廻転生」をする機会を永遠に失うことになる可能性があります。
もっとも、「獣」になる身魂は自ら「神」としての改心を拒み、過去の業や罪に対する償いを拒否してその道を選んだ訳ですから、元々「天に唾を吐く」タイプの人が多いのでしょう。
おそらく面と向かって「アナタ輪廻しないわよ」と言ったところで、「ハア?」といったリアクションでしょうし、「いや、別にいいけど」という感触ではないでしょうか。
だから、当人としては「そのつもりで」やってきたと言えますし、彼らの選択を素直に受け入れるのも礼儀かもしれません。
どんな身魂でも、人間に生まれついたからには遍く「神の一柱」であり、この地球を司るのは「ヒト」という神々なので、神の意思は最も尊重されなければならないのです。
ところで、以前「外道とは何か」という記事の中で、「神の道」から外れた「外道」という存在を扱ったことがあります。
「外道」には「悪の外道」だけでなく「善の外道」もあり、神から見ての「善悪」を含んだ「神の道」から外れた行いは、全て「外道」になりうることを解説しています。
今回、記事として取り扱おうと思ったのは、「外道はみんな獣になってしまうのか」という誤解が生じそうな気がしたからです。
そこで、まず「善悪」に照らし合わせて、「神の道」の位置づけを解説していきたいと思います。

まず上段から説明すると、私たちが「善悪」を考える時の一般的な認識を示しています。
基本的に「悪は無くそう」という考え方であり、「勧善懲悪」に行き着きます。
自分は基本的に「善良」であり、「悪」である側が懲らしめられるべきであり、この世から「悪」が消滅することで世に秩序が戻り、平和で明るい社会になると考えます。
しかし、「悪」を滅しようとするほど「悪側」の抵抗は強まり、弾圧された側が一部でも存続する限り、この戦いは繰り返され終わることはありません。
「扶桑の巻・第十一帖」では、こう述べられています。
「人民と申す者は天狗だから、自分は良いのだが世の中が悪いのだと申しているなれど、世の中と申すものは大神のハタラキの現われであるから、大神の中での動きであるから、世の中が悪いと思うのは大神が悪いと思う事になるのじゃぞ、そこに底知れぬ程の魔の仕組みがあるぞ、気つけおくぞ」
神々から見て、この世には本来「善悪」が存在しないとされます。
全てが「歓喜」であり、人間から見ると良し悪しと見えることでも、本来は大神から発せられる「自由」の範疇なのです。
しかし、やはり生きている中では「良いこと」と「悪いこと」の区別が必要です。
食べ物の中にわかって毒キノコを入れられると困りますし、お風呂の中でウンコされるのもめちゃくちゃ困ります。
だから、どこかで「線引き」をしなければならないのですが、この「線」の位置は人によってズレてくるのです。
「この世の中が悪い」と思う時、人によって善悪の価値判断が異なるように、誰かにとって普通なことが別の人には「非常識」だったりします。
そして、この世に「絶対に許されない」という観念が生じた時、大神が許しておられるから存在するはずの「自由」が、とてつもない「悪業」に映り、その排除に向けて「正義」の暴走が始まるのです。
この現象が、世を混乱に陥れるだけの社会運動とか「戦争」に結びつくと考えられないでしょうか。
ここに「魔の仕組み」があり、自分たちは「善良」で「絶対正義」だと思っているからこそ、いかなる「排斥行為」も無限に正当化しうるのです。
そして、抑圧される側が排除に抵抗するほどに敵対関係は強まり、最終的にどちらか一方が滅ぶまで争いが続いてしまいます。
では、ここで「魔」はどういう位置づけなのでしょうか。
「魔」について解説する前に、まず「外道」について深掘りする必要があります。
「黒鉄の巻・第十六帖」に、こうあります。
「一つの魂を得ることは一つの世界を得ることじゃ、人間は一人でないぞ、神は善人の中にも悪人の中にも呼吸しているぞ、悪なくては生きて行けん、悪は悪でないぞ、外道の悪が悪であるぞ」
私たち人間には、大神から与えられた「自由」の範囲での「個性」があります。
人によっては良い部分も悪く働き、良くない癖も魅力の一部だったり、総じて「個性」と呼べるものです。
本来「悪」と呼ぶことができない「悪」というのは存在しうる訳で、これを「一長一短」や「凹凸」と捉えたら決して悪いことではありません。
それどころか、「個性」の中に人格的な「善悪」を見つけ、一列一平に同じ性質を「良し」とすれば、誰もが没個性を要求され、量産型の生き方を求められてしまいます。
この「許されている悪」から逸脱した悪が、「神の道」から外れた「外道」ということになります。
では「外道」について、「春の巻・第三十九帖」から引用します。
「道は三つと申してあろう、三とは参であるぞ、3でないぞと申してあろう、無限であるぞ、平面的に申せば右と左とだけでないぞ、その右の外に、また左の外に道でなき道あるぞ、それを善の外道、悪の外道と申す、外道が多いのう、中の中には中の道あるぞ」
(中略)
「中の「・」の道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道じゃ、分かったか」
「外道」とは、「中道」に外れたら左右どちらでも道に背くことになるようです。
「善の外道」とは、善が「清く正しく平和に生きるべきだ」という考えとすれば、「不潔で嘘が多く、騒々しい者は許されるべきではない」と考えることでしょう。
逆に「悪の外道」とは、誰かに不利益になることや罪に問われかねないことを平然と行い、「自分には権利があってやることであり、全く悪いことではない」と考えるような場合です。
このどちらも「我良し」の考えであり、排他的な性質の言動を伴っています。
そして、「悪の外道」にも「善悪」があるとすれば、「自分は善良である」という自己定義があり「我良し」であるうちはまだ「自分」のみでも栄えようとします。
しかし「自分がこのままでは滅ぶ」とわかっていても、他者に対する迫害や破壊を止めるつもりはなく、最終的に誰も生き残らなくなるような「何もかも得しない」という性質の行動が存在します。
これが「外道の悪」であり、自他共に滅び、誰もが弥栄えない「魔」の道なのです。
では、この「魔」の性質を持つ人間こそ「獣」になるかと言うと、その限りではありません。
「春の巻・第四十三帖」に、こうあります。
「平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな、神人共に融け合うことぞ、外道でない善と悪と融け合うのぞ、善のみで善ならず、悪のみで悪ならず、外道は夜明け来れば消えてしまうぞ、夜明けの御用大切と申してあろうが、外道の悪殺すでないぞ、抱き参らすから消えるのであるぞ」
「神の道」という真ん中の道以外は全て「外道」なのですが、これを「幽界」と言い換えれば今、殆どの人が幽界の影響が強い身魂となっています。
「我良し」を中心にした「善悪」の考えは、天地の岩戸が開けて「ミロクの世」となれば、一列一平の「光の世」となるため、「善悪」という物差し自体がなくなるのです。
これが「幽界を神界に引き寄せる(春の巻・第四十六帖)」の真意であり、「悪を抱き参らせる」ことの真髄です。
この時、幽界的な身魂の人々も、改心して新しい世界の臣民になる人もいれば、例え「善」の側にいた人であっても、「我良し」の性質が強ければ「獣」になってしまうでしょう。
つまり「獣」になるには「善悪」関係なく、「我良し」が行き過ぎるか、「自分」という存在すら滅ぼしかねない執念の持ち主には「改心」の意思が見出せないため、神々も「灰にするしかない」という結論に至ってしまったのだと思います。
この宇宙は、全ての存在が「大神」の胎内で起きている事象でもあるので、さすがの「神の眷属」でも秩序に反する存在をどうするべきかは大神の意志次第です。
だからこそ、自分で「神として改心して生きるか、獣になるか」を選択させた上で、「獣」には獣としての運命を与えたのではないでしょうか。
ここで、神は「神に仇なす者たち」を断罪するわけでもなく、罰するでも自ら排除するわけでもなく、彼らの意志で「宇宙を去らせる」ことに全ての答えがある気がします。
神々が彼らを「悪者」にしては「悪を抱き参らせた」ことにならず、「排除」したことにしては「フトマニ(神の法則)」に反します。
「大神の意思(フトマニ)」に反することなく、「弥栄の世」の障害となりうる分子をパージするには、彼らを排除するような手を一切打つことなく、身魂の篩い分けを行われなければならなかったということです。
そのために大事な血統を落とし、地上や神の国を神に仇なす者たちに蹂躙させて「九分九分九厘」まで暴れさせ、残る一厘で「ひっくり返す」という手段を選択しなければならなかったのではないでしょうか。
そして、自らの意思で運命を選択させることで、「悪」に危害を一切加えずに宇宙から消えてもらうことが可能になったのです。
従って、「岩戸開き」が成就し、天之日月大神が御顕現なされ「ミロクの世」となれば、「外道」だった道も「神の道」に組み入れられ、「中道」に善悪はなく「白黒まだら」は完全に混ぜ合わさり、白黒混ざって「鉛色」となった世は「黄金」に向けて「弥栄えていく」のです。
これが「弥栄の世」であり、物質中心の時代ではなく神の手が入る文明であり、私が言及してきた「神世」です。
「大神」の元で一列一平となった人々は、善悪を超越した世界で「個性」という「自由」を持て余すことなく謳歌し、それぞれが成長し弥栄する「良い世」となるのでしょう。
上の図で、神の道の「善悪」について「無私」を善、「私欲」を悪としました。
「我良し」の「我」を「私欲」とするなら、私たちにとって生理的要求を満たし、生物としての肉体を維持する上で「欲」は欠かすことができません。
神示には「禁欲は神の御旨ではないぞ(黒鉄の巻・第三十四帖)」とあり、何かを欲して欲望を満たすこと自体に善悪はなく、ただ「我」を出すことは神の道においては「悪」となりやすいのです。
「我」があっては神の御旨を伺うことができず、「欲」が度を越えると自分に必要のないものまで欲しがり、それを手にするために不用意な行動に出たりします。
これが「我良し」であり、時に「外道」に繋がってしまうわけです。
新しい世では「外道」では立って行けず、「悪の御用」の一部として「善」の踏み台程度に使われることになるでしょう。
ゆえに、これまでのような「悪」は存在できず、今のように悪が「表」に出ている世が改まれば、彼らも座りの悪い思いをすることになるのではないでしょうか。
まあ、これを「弱者の負け惜しみ」とか「ルサンチマンだ」と言われても構わないのですが、これが妄言かは時間が答えを出してくれるはずです。
「弥栄の世」とは、2029年に岩戸が開けて即、地上が「天国」のような文明に様変わりするようなものではないと思います。
「弥栄」とは「成長」であり、人が自らの行いを反省し、改心することで次第に世が良い方向に進んでいく、その絶えざる連続に他なりません。
これまでの時代は、景気が良ければ社会の雰囲気が良く、秩序は保たれ文化は隆盛し、時代が進んでも状況次第で文明として後退することもしばしばありました。
しかし「弥栄の世」は、「繁栄」の判断基準が違うため、時が経つほど世も文明も進化して良くなっていくのです。
この時代の到来をもって、文明は「完成」を迎えるのだと思います。
最後に、その時代を作るにあたり私たちはどう道を歩めば良いのでしょうか。
「黄金の巻・第二十九帖」に、こうあります。
「道は易し、楽し、楽しく無いのは道ではないぞ、奉仕ではないぞ、世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ、目醒まさねばならんのじゃ、それが順序と申すもの、神示で知らせてあろうが」
「日月神示」を岡本天明氏に降ろされた「天之日月神」とは、日本神話で「国産み・神産み」をなされた伊弉諾命と同定できます。
地球を造り固められ、「日本」という国をお造りになられた伊弉諾命様がこう仰るのですから、何を躊躇うことがあるでしょうか。
私たちは「地の修理固成(つくりがため)」の最終段階に高天原から遣わされた「地之日月神」たちなのです。
もう一つの「天孫降臨」を、現代で行なっていると言っても過言ではありません。
二度目にして、日本の最後の「国造り」に携われることを、私は誇りに思います。

