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2026.03.30

「悪」を許す

「悪」を許す
2026.03.30

楽太郎です。

 

さて4月2日、天秤座で満月が起こります。

「天秤座」がメインテーマの訳ではないのですが、どうもこのところ「不安定」だった人々の心に浄化の光が差し込むようです。

 

世に吹き荒れる「善か悪か」という議論や、「自分か社会か」という判断を巡る振り子が人々の心を揺れ動かしていたとすれば、良くも悪くもどちらか一方に心を「安定化させる」ための神々の浄化です。

「良くも悪くも」というのは、心の迷いや不安定さを打ち消すような心の定めは、どういう結論にせよ良い方向にも悪い方向にも顕著に現れるようになってくるからです。

 

「天秤」で考えると、右と左のバランスを取ることで安定することもありますが、却って右から左かに振り切ってしまった方が安定することもあります。

こうした「定まり」は、現象として見れば動揺や不安を打ち消す効果があります。

しかし本質として見れば、その「安定」が却って世の趨勢を極端に振り分ける方向に向かうこともあるはずです。

 

ただ、「善」を志向し自分の行いを改めることを決めた人々は、この「春」を機に良い方向へ物事を進めることになると思います。

それが形となって実を結び、目に見えて現れる頃には、「神か獣か」もだいぶ可視化できるようになってくるはずです。

 

私自身、「誰が救われて誰が救われないのか」を口にするのも心苦しいのです。

しかしスピリチュアルな現象として世に現れ、実際に「日月神示」で語られている以上は、残念ながら避けては通れない話です。

 

私も日常的に、「見た目」ではなく「波長」として明らかな違和感を感じることも多くなりました。

実際「世界線の分岐」は霊感で知覚できるレベルまで現実化してきた気がしますし、どうも否定しきれないように思えます。

 

おそらく「神か獣か」に分かれた「世界線」の意味とは、「神世宇宙」と「旧宇宙」との切り離しを意味し、神示に言う「5人に1人」は旧宇宙に残ることになるのだと思います。

そして、「神世宇宙」では霊的法則が強くなり、同じ波長の人々が引き寄せ合いコミュニティを形成する、良質な引力の世界で生きることになりますが、逆に「人世宇宙」では相変わらず幽界の念の強い「引き寄せ」の世界で、今生を終えることになるのでしょう。

 

ただ、この分岐は2025年3月20日春分と5月13日満月までの間に決定したことであり、それは各々が自ら「選択」した結果であることは言うまでもありません。

これは「罰」でも何でもなく、人それぞれが自らの「天国」をどちらか選んだだけであり、神の世界から見れば正誤は存在しないように思います。

 

だからこそ、2月から始まった世界線の具体化は宇宙にとって辿るべき段階に過ぎず、そこに「善悪」や「賞罰」がある訳ではないということです。

人は誰しも大神の分霊を伴う「神」の一柱ですから、天の神々ですら地上の神々に指図することはできず、それぞれの「天国」にこれから向かっていくということなのでしょう。

 

*

 

さて、今回は「なぜか米国時間が土日の間は世界の動きが止まる」という不思議なヴォイドタイムを利用して、最後までスピリチュアルな話をしていきたいと思います。

先日、こういう夢を見ました。

 

私が中華料理屋に入って「中華飯」を注文したのですが、私の注文と全く異なる料理が運ばれてきました。

私はその料理を違うと言って店員に突き返すのですが、再び目の前に差し出されたのは何かの千切りで、その時この店員が「店のメニューの内容を全く把握していないこと」に気づいたのです。

そこで私はカッとなって、「何でこんな店員を雇っているんだ」と、厨房に怒鳴り込みに行く、そんな夢です。

 

すぐに目が覚めて、自分が理不尽なほどの「怒り」の感情を溜め込んでいたことにようやく気づきました。

私の日常生活の中で、世のメディアや報道に腹立つことはありますが、それほど深刻に「怒り」を感じることはありません。

 

強いて言うなら、最近できた近所の公園が2年以上もの工期を経たにも関わらず、どう見ても未完成のままオープンしてしまい、作りかけられた公園で遊ぶ子供たちを見て、とても居た堪れない気持ちになったのです。

私はこれを「中抜き公園」と呼んでいるのですが、近所にあるものですから外出するたびにチラチラと視界に入ります。

 

一体、この公園が中途半端な形で完成するまで、どれほどの公金が誰かの懐に入れられたのか考えると、さすがに腑も煮えます。

私のような「無敵の人」が、役所や企業の重役を土下座させるくらいには暴れ回ることもできるのですが、それはさすがに神の御旨に反するので、涙を飲み「その他大勢」の中で耐え忍ぶしかありません。

 

そんな「怒り」を押し殺し、表に出さないような「努力」を「精神的修行」と考えながら暮らしていると、やはり「我慢」しているだけでは根本的に感情の歪みは誤魔化せないのでしょう。

おそらく、こうして私が無意識に押し留めた「怒り」が、中華料理屋で自分の注文が出てこないことに腹を立てる夢として現れたのだと思います。

 

神示には「怒りは慢心である」とありますが、「我」というものがあるからこそ怒りに繋がるのは私も重々承知しています。

しかし、これを「我慢」して感情を押し殺しているだけでは、どうも根本的な解決にはならないのは確かなようです。

 

目の前で起こる理不尽な言動を「悪」と見て怒りを抱くことが、なぜ神の目から見て「慢心」とされるのでしょうか。

不愉快な行動を認識した時、自分を軸にして自分の判断が正しく、間違った行いをした相手が懲らしめられるべきと考え、その欲求がすぐさま果たされない不満が「怒り」となるからです。

 

つまり、「善悪」の欲求不満が「怒り」となり、その判断の軸には「自分が正しい」という思い込みがあるからこそ、異なる価値観の人間に対して反感が高まるのです。

これは逆に言えば、「善悪」の価値観が強く「善」を志向するからこそ抱きやすい感情と言えます。

 

「人のことなんかどうでも良い」と常に思っており、目の前で人が倒れていても平然としていられるような感覚の持ち主なら、そもそも世の不条理に怒ることはないでしょう。

自分が「善人」であろうとし、「正義」を感じ取る能力があるからこそ、悪事を目の当たりにした時に抱く感情が大きくなるのもやむを得ないことではないでしょうか。

 

しかし、それが「善悪」の価値観に基づいているからと言っても、「慢心」であることまで見過ごす訳に行かないのが神々の視点なのだと思います。

「善悪」を根拠にした怒りは、常日頃から悪逆非道な行いをする人間にもあります。

「善」を志向するあまり他者を猛烈に排斥すれば、「善の外道」になりうると神示では語られています。

 

神々にとっては、「善悪」そのものが問題というより、「我良し」が極端に現れる方が遥かに問題なのでしょう。

天から見て、人間社会にある善悪は「相対」のものであり、言ってみれば「どっちもどっち」の世界です。

 

日月神示「夏の巻・第二十四帖」には、こう述べられています。

「すべて世の中の出来事はそれ相当に意義あるのであるぞ、意義ないものは存在許されん、それを人間心で邪と見て悪と感じるから、狭い低い立場でいるからいつまで経ってもドウドウめぐり、それを毒とするか薬とするかは、各々の立場により考え方や処理方法や、いろいろの運び方によって知るのであるから、心せねばならん、今に一生懸命になって下されよ」

 

天界から見て人間の世界に生ずる「善悪」とは、やはり「人それぞれ」なのでしょう。

しかし私たちは、倫理観が人それぞれでは社会を維持することも秩序を存続させることもできません。

むしろ、善悪の基準を極度に「個人の判断」にしてしまった結果、回転寿司屋の蛇口で頭を洗う行為を面白がる風潮を作り上げてしまったのだと思います。

 

けれども、コンビニのおでんをツンツンするのは人間社会では許されなくとも、行為が現象として存在する以上は宇宙から「許されている」とも言えるのです。

SNSで炎上するくらいならまだ可愛いものですが、子供を誘拐して生きたまま臓器を抜き取ったり、無抵抗な民衆にアサルトライフルを向けるという行為も、世界では平然と行われていたりします。

 

これを「自由」や「権利」だと言って容認し続ければ、その増長がいずれ自分に向かうことも充分に考えられます。

ここで「抵抗」を悪と考え、暴力に対して力で立ち向かうことを拒否すれば、結局は暴力によって蹂躙されることになります。

それを「善を貫き通した」と本人が誇れたとしても、そもそも「善」とは自分や身の回りだけでなく、社会全体としての平和や永続性を保つ意識でもあるため、誰一人守れないようでは「善」とは言えません。

 

けれど、こういった極端な無秩序の現れですら、神々から見れば「大神」が許し給われ、「意義」のあるものだとされます。

むしろこうした残酷な現実こそ無いのが理想であり、神がそうした世界を創り出して下されば、私たちがこうして嘆いたり義憤に駆られることもなくなるはずです。

 

しかし、それでも世に悪事や禍事が蔓延り、愛や平和が踏み躙られるような世界でも許されるべき世界となっているのです。

それは一体、なぜでしょうか。

 

人間の如何なる行いに対して「悪」や「邪」と見るからこそ、「善」の側が悪を滅ぼそうとして、自らを「正義」とする側同士で滅ぼし合うというループに入ります。

それを神から見れば「狭い低い立場」と仰っておられるのだと思います。

 

「善悪」という平面の横軸で、右へ左へ押し合うからこそ、この「堂々巡り」は一向に終わることがないのです。

だとすれば、「縦軸」を用いて「立体」にしてしまえば、力が分散されて衝突し合うエネルギーに逃げ場も生まれます。

 

「星座の巻・第七帖」に、こうあります。

「この世を造った太神おおかみの神示ふでぞ、一分一厘違わん事ばかり、後になって気が付いてもその時では遅い遅い、この神は現在も尚太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理分かって下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈搏するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜、弥栄とはこの事ぞ」

 

例えば、水中の微生物を食べて成長した魚にも、その魚を捕まえて食べる鳥にも「善悪」はありません。

その鳥を仕留めて血肉に変えることを、人間は一般的に「罪」とはしません。

極端に言えば、人間が人を捕まえて奴隷のように使役するのも、宇宙から見れば鳥が魚を捕えるのと「同義」なのかもしれません。

 

それを「違う」と捉えるのは、私たちが人間であり「善悪」の当事者だからです。

しかし宇宙を司り宇宙そのものでもある「大神」からすれば、善も悪も含めて全てが「歓喜」の現れなのでしょう。

 

「善悪」が平面では横の直線であり、「歓喜」を縦軸とすれば、善と悪それぞれが「歓喜」の発露であることになり、歓喜として捉えれば善悪が「等価」となります。

魚を鳥が捕食するのも、その鳥を人間が美味しく頂くのも、等しく「歓喜」であるように、例え「悪」に見えたとしても、それすら宇宙にとって「歓喜」の現れなのです。

 

そして、この「歓喜」の多様性こそ、この宇宙に発現可能な「自由」でもあります。

「自由」として宇宙に存在が可能だからこそ、大神が「許し給われている」と言うことができるのでしょう。

 

私たちは、目の前で起こる理不尽な行動や、残虐非道な行いを忌まわしく思いますが、如何なる悪行も「悪という名の歓喜」とすれば、そう見えたとしても忌むべきではないのかもしれません。

だからこそ、日月神示では「あらゆる悪も大神が許し給われる」とし、ゆえに「悪を憎むな」と語り「悪を抱き参らせよ」とされるのだと思います。

 

逆に言えば、歓喜そのものに「善悪」の性質を求めるならば、全てが「善」なのかもしれません。

宇宙原初神であられる天之御中主神が「愛・善・真・智」を象徴するナギの神・ナミの神(高神産日神・神産日神)をお産みになられたのですから、その二柱の神が司る宇宙も「善」の本質を持つはずです。

 

だから、人間の目から見て如何なる「悪」に見える世界であっても、神々の時間軸で見れば「弥栄」の一部であり、宇宙は「善」という理想状態に向かって「弥栄える」性質を持つのだと思います。

かと言って、「自分が滅び他の全ても滅ぶ」という性質の「悪」をのさばらせておけば、どうしても世が弥栄ないのは火を見るより明らかです。

「弥栄」を志向する宇宙が「弥栄えない」ことは大神の御意志に反し、神々の御旨に沿わないからこそ「悪」と呼ばれるのです。

 

「悪」という自由が宇宙に認められているとしても、宇宙にとって「弥栄えない」という自由があってはならないのです。

だからこそ、この100年に及ぶ「大峠」をもって3000年の「闇の世」を終わらせ、「善」を志向する神世に造り替える必要があったのだと思います。

 

「悪」も本来あるべき「自由」の一部であり、「歓喜」の現れなのだから、それを人間の主観で捉えて「正義感」だけで何とかしようとするべきではないのかもしれません。

「善」を志向する意識が強いからこそ、逆に「悪」を意識しすぎてしまい、悪意に捉われることで却って「善の外道」になりかねないのです。

 

ただ、「善悪」という価値観がなければ、世に蔓延る悪意に絡め取られてしまい、知らずのうち悪行に手を染めることになります。

このバランスを取るのは難しく感じますが、ここで「善の外道」にも「悪の外道」にも陥ることなく「中道」を選びとることこそ「神の道」であり、宗教を超えた思想の道、実践の方法なのです。

 

「月光の巻・第五十四帖」からです。

「その鼻曲げて、自分の臭いを嗅いで見るがよい、そなたは左に傾いているぞ、左も見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ、そなたは右を歩きながらそれを中道と思って御座るぞ、そなたは平面上を行っているから、中道の積りで他に行く道は無いと信じているが、それでは足らんのう、立体の道を早く悟りなされよ、正中の大道あるのであるぞ、左でも無く右でも無く、嬉し嬉しの道あるぞ」

 

私も、自分の評価に悩むことがあります。

批判されたり揶揄されたりするのは「仕方がない」と割り切れるのですが、自分がより良く評価されたいと思う気持ちの方が、逆に自分のやり方について迷わせ、不安になり心が揺れ動くのです。

 

また「自分を大きく見せたい」という欲が湧くからこそ、自分が小さく扱われた時の反動も大きかったりします。

そこで「怒り」が湧くとすれば、自分の限界というものを正しく認識し、自らの実力を自分に落とし込めていないからこそ、その期待が裏切られた時のショックが大きいのです。

 

人や社会に「良くなって欲しい」と思うからこそ、逆の手を打とうとする人間が憎くてたまらなくなります。

ここで「怒り」を抱える自分に気づき、さりとて感情を押し込もうとせず、もっとニュートラルに捉えるべきなのかもしれません。

 

今の世は、「善」の心や「正義感」が却って仇となることが多いように思います。

それを認識した上で、無理押しをすることなく目の前の物事を自分の身体を通して処理していくしかないことを、まず悟る必要があるのかもしれません。

 

これまで、「怒り」のエネルギーが「善悪」という一直線に往来するしかなかったからこそ、感情の逃げ場は反対方向に向かい、より激しい応酬にエスカレートするしかなかったのでしょう。

ここで上下に「歓喜」という軸が加われば、「善悪」に滞留していたエネルギーは逃げ場を持つようになります。

 

そこで「悪も歓喜の現れなのだ」という視点を持つことで、「悪」も多様性の一部であり、自らを絶対視して自由を限定するような傲慢さにも気づくことができるはずです。

いかに目の前で起こることが忌まわしく思えても、それが全てではないからこそ、「許す」という視点があることに気づきを持つことが重要なのだと思います。

その上で眼前の迷惑行為をどうすれば良いか考えるべきであり、一度にして十把一絡げに世界を変えようとするからこそ、容易に変わらぬ人々に怒りをぶつけるしかなくなるのではないでしょうか。

 

こうは言っても、私も近所の「中抜き公園」を見てイラッとしないでいられるかと言えば、正直難しいと思います。

頭で立派なことを考えていても、瞬間的に湧き出る感情の方が「本質」に近いものです。

 

思想として理解はできても、ハラに落とし込めているかは別問題です。

しかし、まず頭で弁えて自分の考えの癖を少しずつ直していかないことには、何の実践も始まりません。

 

世に不正が蔓延り、不平等が最大限に正当化される世の中だからこそ、逆に「怒り」で押し切ろうとするべきではないのでしょう。

むしろ眼前に起こる「悪行」に対して重く受け止めすぎず、「憎悪」を持つくらいなら「笑い」に変えて受け流すような柔軟さこそ求められているのかもしれません。

 

「天国」とは、戒律が不要なほど人々が良心に溢れ、互いに庇い合うから不安もなく、誰もが笑って暮らせる世界だとされます。

そんな世界がこの地上に造り上げられないかというと、私は不可能とは思えません。

 

今でこそあり得ないように思えますが、100年後や1000年後、1万年後にある世界のあり方を想像すれば、その時代を造るのは今の私たちに掛かっていることがわかるはずです。

私たちが天国に住む人々のような生き方を志し、身の回りから「天国」のような環境にしていくことから、まず始めるべきなのかもしれません。

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