瀬織津姫様は、一柱の「大神」として御自身が正しくお祀りされることを願っておられたからこそ、私に信仰の「手放し」を促されたのかもしれません。
「つきさかきむかつ姫の神」の「光」としての御顕現を「撞賢木向津姫命(瀬織津姫)」とするなら、「闇」としてのお姿が「禍津神」であり、この神々を一対として「大神」であられます。
その姿をおぞましく感じるからと言って、私が「悪神」を一方的に突っぱねていては、「神の道」を正しく進むことができなかったのだと思います。
「悪」も大神の一面なのだとしたら、どれだけ忌々しく見えたとしても、「闇」の相から「つきさきむかつ姫の神」の御姿を見て、その奥にある「瀬織津姫命」の御心を知ろうとしなければならなかったのです。
瀬織津姫様の御心は「大神」としての「つきさかきむかつ姫の神」そのものであり、「大日月大神」の御意志と寸分違わぬ心であろうからです。
「大神」が天地を治しめす際、宇宙における「創造と破壊」を伴う「荒ぶる力」は、本来なら「善悪」を超越したものです。
「大神」は「善なる神」と「悪なる神」の御力として現れるものの、全体として一つの「御働き」に他なりません。
ゆえに大神に「善悪」はなく全てが「導き」であり、「弥栄」のためになされる御活動と言えるのです。
この世界の美しい部分、良いと思う部分だけを見て、人は生きていくことはできません。
当然、目を背けたくなることだって起こりますし、受け入れ難いことも認めながら肯定していくことこそ、この宇宙を「生きる」ということなのだと思います。
これは「神」への向き合い方も同じです。
まして「人」と関わる時だって、良い面だけではなく差し障りのあるところも認めなければなりません。
是非が生じる部分を受け入れてこそ、本当に人を心から愛することができるのです。
その心を「神」に向けた時、「悪」も許すべきものに見えてはこないでしょうか。
神の中に「闇」が生まれるのは、私たち人間と全く同じ心理かもしれません。
人は「善良」であろうとして、「善心」を心掛けても「悪心」は湧いてきて、何かをやり切った時にも煮え切らない部分や、心にわだかまりは残るものです。
それが大神の御心にあって「邪」となり、「悪」となって神の世界に現れるのではないでしょうか。
それならば、私たちから神の御心を察し、その顕れの全てを愛してこそ、深い「信仰」に至ると言えるでしょう。
神の「善」の一面だけを尊び、「悪」の一切を認めなければ片手落ちとなり、真の意味で「祀り」は叶わないからです。
人間の目からは神の御働きに「良し悪し」を感じたとしても、「一つのもの」として捉え、一先ずは肯定していくべきなのです。
その現れに「大神」のお姿を見て、そこに「善神」の御心を感ずる時、私たちは全てを受け入れることができるでしょう。
これまでの「闇の世」では、おそらく神々でさえもこうした考えに至れず、「平面」の世界で「善悪」を持ち合い、互いを許せぬ状況が続いたのだと思います。
「人」も「神」も同じ過ちを犯していたとすれば、「大神」の御心に生きる「善神」は自らを省みて、尚さら「悪神」も改心する、そのきっかけとなるのが「大峠」なのかもしれません。
互いに「非」を認め、その反省を乗り越えてこそ「弥栄」の道は開かれるのだと思います。
瀬織津姫様は、ずっと私を導いてこられたからこそ、一柱の「大神」として私にこのことを伝えねばならず、自分の「信仰」に囚われて欲しくなかったのかもしれません。

