例えば、宇宙空間には暗黒物質「ダークマター」が充満しているように、「闇」は世界を構成するには欠かせない要素と言えます。
「天地」には「光と闇」が存在し、天地が生み出される前の「原初」では、「光と闇」が混在した状態であったと考えられます。
その根源から「光」がより澄み切ったものとして生じるなら、「闇」はますます濃く分厚いものとなるはずです。
世の元たる「光の大神」が、清き「善神」を産み給える時、世の摂理としては同時に「穢れ」をまとう「悪神」も産み出されなければ、「光と闇」の均衡は生じません。
「つきさかきむかつ姫の神」が御自身の内に「瀬織津姫命」を産み給われ、「命」として成りなされた時、同時に「禍津神」も産み出されたと考えてもおかしくはありません。
「つきさかきむかつ姫の神」が「光と闇」を内包する御存在であるとすれば、相反する性質を持つこと自体が、姫大神をお産みになられた「伊邪那岐神・伊邪那美神」の夫婦神にあるものを受け継いだとも言えます。
このことから、二柱の大神も「光と闇」の性質を同時に併せ持つと考えた方が自然です。
世に生じる「悪」の大部分が、この世の「闇」の部分を司る「悪神」によってもたらされることは言うまでもありません。
日月神示「地つ巻・第十八帖」では「元の二八基じゃき光理こり湧いて出た現空ゲスの種は二八基と大老智おろちと四通足よつあしとなって」とあり、つまり大神の「邪気」が凝り固まると、「ヤマタノオロチ」や「金毛(悪狐)」「鬼」といった悪の神々を生み出してしまうと考えられます。
また「海の巻・第五帖」にも「本来悪も善も無し、ただみ光の栄えのみ、八股オロチも金毛も、邪気ジャキも皆それ生ける神、神の光の生みしもの」とあり、「悪神」が大神がお産みになられた正真正銘の神々であることが記されています。
日本神話では、「伊奘冉命」が「火之迦具土神」をお産みになられた後、その火傷が元で「黄泉の国」に入られた、とあります。
妻を亡くし、一神となられた伊弉諾命はお独りで地上を造り続けられたのですが、そこに限界を感じたことで改めて伊奘冉命を頼り、黄泉の国に赴かれたものの話がこじれて、夫婦神は「別離」する運びとなりました。
つまり、二柱による「地くにの修理固成つくりがため」は、伊奘冉命が離脱したことで未だ途中と言え、この世は依然、未完成のままだと思われます。
現宇宙は「八方世界」とされますが、夫婦神が力を合わせて「地」を完成させていれば、宇宙は「十万十全」に拡がる「光の世」となっていたはずなのです。
世が「未完成」であるがゆえに、「天」から地上に降り注いだ「気」は真っ直ぐ「天」に還らず、地上の「凹凸」で屈折して「曲がった気」として滞留していきます。
この「気」の曲がった部分こそが「邪気」であり、この滞留が「幽界」を造り出し、凝り固まったものが「悪神」になったと考えられます。
最初から「十方世界」が造り出されていれば、完全なる「光の世」では地上の気は真っ直ぐ「天」に登り、「邪気」が凝り固まることはなく「悪神」も「幽界」も存在する要因も発生しなかったでしょう。
「八方世界」という未完成な状態のまま放置されたことで、「悪」が広がり時代は「闇の世」になったと考えられます。
そもそも、なぜ「闇」は「悪」を成すのでしょうか。
「悪神」が性格的に争いを好み、不義をもたらし、不幸を喜び、破滅を志向する、これは「神」とは「真逆」の性質を持つからとしか考えられません。
「闇」とは「光」に相反する性質を持つため、そもそも善なる「神」に敵対し、神の性質に対して憎悪する習性を生まれ持つのかもしれません。
そして「神の愛」が強いもの、神が「大事」とするものほど、悪神は「毀損」の対象とし、踏みにじり破壊することを望み「破滅」を目論むのです。
悪神にとって、最も憎むべきは神の重んじる「愛と平和」であり、また神の一柱たる「人間」が愛の下で「幸福」を得ることだったりするのでしょう。
こうして見れば、今の世が「神の性質」の強いものほど粗末にされている現状と、そうなっている理由がわかる気がします。
言わずもがな現代は「闇の世」となり、まさに悪神の思い通りの世界となっていると言っても過言ではありません。
もし「大神」が全知全能の創造神であるならば、なぜ初めから「光の世」となさらなかったのでしょうか。
もちろん「大神」にも限界があった可能性はありますが、私にはどうも「未完成」のまま八方世界に据え置くことが「段取り」であったとしか思えないのです。
「幽界」も「悪神」も、天地が未完成であることの「弊害」から生み出された存在であり、悪神は二柱の大神が「産もう」として誕生なされた神々ではない、ということに留意すべきです。
つまり「幽界的存在」は「不慮」により生まれ出でる存在であり、「闇」が止むを得ず生じるものである、ということが重要な意味を持ちます。
「光と闇」が等価であり、同時に生まれるものである以上、最初から「光」だけを抽出することはできません。
まず「光と闇」を同時に生み出し、一度は「闇」に染めてから「光」に染め直すという段取りを踏んでこそ「平等」であり、それに準ずると言えます。
まず世を「悪」に染めて「闇の世」とし、そこから「善」を巻き返して「光の世」とする、それが当初からの大神の御計画であった、と考える方が自然です。
そもそも「憤怒」など負の感情を持つと「神の座」から外れる、そうした立場におられる神々にとって、「善」である以上は「悪」を意図して行うことはできず、自らの手で「闇の世」を作り出すことはできません。
また、「大神」が意図して「悪神」を産み出そうとすれば、大神こそ正真正銘の「悪の親玉」となってしまい、悪神を取り仕切る存在となれば「善神」とは言えないでしょう。
「悪」は悪神がもたらすものであり、「悪神」は摂理として産まれ出てしまうもの、という体裁を取ることで、「大神」は「光」でありながら「闇」を生み出し、「善」でありながら「悪」を世にもたらすことが可能となります。
大神はそうした「体」にすることで、「闇」を「光の大神」の一部として内包させ、「善神」でありながら「悪」を意のままにすることができるのでしょう。
これは穿った見方かもしれませんが、こうした仕組みにすれば、大神は本質的にも「建前」としても、自らの手を汚すことなく「汚れ仕事」を行うことができるのです。
そして、ここで行う「汚れ仕事」である「悪」とは、世を治める神々の持ち回る「役目」と考えれば、まさに「御用」です。
日月神示に「悪を憎むな」とあるのも、この世に「闇」をもたらす存在は、この宇宙にとって必要不可欠なのだから、否定するべきではない、という意味に等しいと思います。
「光」が輝くには、そこに「闇」がなければ無いも同然であるように、「善」も「悪」も互いが存在してこそ、双方が存立しうると言えます。
「善」をなすには「悪」がなければならず、「善悪」が互いに調和するならば、それを総じて「善」と呼ぶのかもしれません。
「悪」を乗り越えて「善」を成す時、「闇」に「光」がもたらされることになります。
「悪神」をお産みになられた大神が「善神」である限り、いずれ「闇」には「光」がもたらされ、その治世は「大き光」の世界となるはずです。
これこそ「弥栄」の世界であり、「ミロクの世」を指すのではないでしょうか。
「闇の世」がその世界に至るステップであったとするなら、全て最初から決められていた御計画と考えた方が自然です。
おそらく、この「段取り」を踏むために必要なのが「大峠」であり、私たちは今、まさに世が移り変わる、「三千年」の節目の時にあると言えます。
「悪」がなぜこの世に存在し、なぜそれが必要なものなのか、なぜ悪が蔓延る「闇の世」とならなければならなかったのか、その答えがここにあります。
だからこそ、目の前に広がる「闇」に屈することなく、私たちは「光」に目を向けていかなければならないのです。

