楽太郎です。
今月31日の満月は「射手座」で起こります。
ホロスコープ的には、対岸に星座が集まる形となっていますが、これが関係するかはさておき、この満月の象意は「選択と集中」になると思います。
3月20日の春分から世界の「テーマ」が大きく切り替わり、特に「世界線の二極化」の具現化が進みました。
5月17日の「牡牛座新月」は、ますます「分岐」の趨勢を強める働きを伴っていました。
そして、流れに影響されて「取捨選択」がより強い圧力となって現れるでしょう。
31日の射手座満月は、より「的を絞る」ことを求められる現象に繋がると考えられます。
3月20日春分から世が大きく切り替わったという話をしていますが、ここから本題です。
この1か月は、この世界的変化を現象として捉えることができる期間だったと言えます。
ホルムズ海峡閉鎖による世界的なエネルギー危機は、紛争解決への道が暗礁に乗り上げることで深刻さを増しています。
反して、この不確実性を「投機」に結びつける流れは、史上最大の株式バブルという熱狂に繋がっており、この「非対称性」は真剣に捉えるべき事象だと思います。
3月の春分点から加速したのは、「世界線の分岐と具現化」です。
弊ブログ「絵語」でもリアルタイムでお伝えしてきたことなのですが、5月2日蠍座満月から霊的に高い波長域への「上昇気流」が発生し、私の言う「精神界」、神示では「奥山」と呼ばれる、新しい霊的気場へのアクセスが促進される期間になっていました。
体感的には、5月17日牡牛座新月あたりが最高潮となっていたようで、予告した通り31日射手座満月へ向けて「上昇気流」が弱まるのも確認できています。
今週はこの「次元上昇キャンペーン」の最終週にあったので、このブログをご覧になられるような方は特に、気場に上がる人々をサポートするため霊的に多忙になる方もおられたのではないでしょうか。
日月神示では「神と獣」に分かれると言われますが、「神世」の方に進む世界線での「上昇気流」は、人々の「霊的上昇」という形で見ることができました。
対して「人世」の側にも「上昇気流」は発生しており、それは世に起こる「争い」や「資本」の面で、ますます勢いを増す現象として可視化されていたと言えます。
この「上昇」が、二つの世界線で異なる現象として現れたことは興味深いと思います。
一方はより抽象的に、他方は具体的な傾向を示しており、どちらも「望む方向」に、つまり「天国」に近づいたということです。
この「天国」の定義は、見たままの印象としての良し悪しではなく、「魂が望む世界」としての天国であり、愛や平和を求めた先の世界、喧騒や欲望を「愛する」からこそ求めた世界にある「理想」の姿なのです。
だから、天から見れば「平和の世界」も「戦争の世界」も、望む側からすればどちらも「天国」と言えます。
実際、霊の世界は自らの波長のままの場所に行くとされており、世界線の分岐と具現化が進むということは、この地上世界も霊界同様の仕組みになっていくということです。
スピリチュアル界隈で言われてきた、地球の「次元上昇」というのは、私たちの住む宇宙の「霊界化」であり、現に今の趨勢は地球が「半霊化」し始めている兆候と言えます。
今、私がお伝えしているように「天下の大掃除」が行われ、その一端として「浄財」も実に地味な形で進んでいます。
これも地球の「次元上昇」と繋がっており、それらを総じての大プロジェクトが「大峠」であると見て間違いないでしょう。
いずれ「神と獣」はきっぱり分かれたことが完全に可視化される状態にはなると思われますが、「神世」の側のに起こる現象はなかなか見えづらいかもしれません。
以前の記事で「日の出の巻・第二十帖」を引用し、「大掃除する時は棚のものを下に置く事あるのだぞ」と述べられていることを指摘しましたが、今は「天」に近い場所にいる人々から「掃除洗濯」が始まっているため、特に可視化されづらいのだと思います。
しかも、この「大掃除」は霊的次元から始まるという流れであるため、常日頃から目立たない場所から目に見えないやり方で行われているからこそ、注意深く観察していなければわからないはずです。
最近、「風邪気味だと思って病院に行ったら、大してそうでもなかった」という話をよく聞くのではないでしょうか。
今、大体の人(5人に4人)は一応「神の道」に向かってはいるので、「借銭返し」や「霊性変化」がどこかで現象化していてもおかしくありません。
ただ、そんな指摘をする人は殆どいないので、「季節のせいだ」とか「自律神経かもしれない」と思うのでしょうが、人間は「肉体」だけでなく「霊体」も持つと考える人は少ないのです。
こうした「目に見えない地味な変化」は日常茶飯事で起きており、そうした小さな変化から「掃除」が進んでいると言えます。
この時、無駄に搾り取られて日々の生活が苦しくなり続けている一般国民は、ある意味「借銭返し」の中にいるのかもしれません。
人間の「業」、特に「負のカルマ」は今まで生きてきた中で堆積した分だけでなく、過去世や親族のものも背負っているものです。
その「返済」がこの時期、厳密に言えば2010年頃から始まったと考えられ、「個の大峠」に加えて「神世」に向け、着々と返済していく時期と捉えて差し支えないと思います。
「そんなことが全ての人に起こりうるのか」と疑問を持たれるでしょうが、「因果応報」は今生に起こることだけで考えるから「ない」ように見えてしまうものです。
ただし、「大峠」における「因果応報」は、この数年で必然として起こるものとして用意されており、だからこそ2020年以降、私たちは色々と大変な思いをせざるを得ないのだと思います。
この「魂の債務」は、嫌でも踏み倒すつもりでも全人類が負わなくてはならない「義務」であり、逃れられる人はいないのでしょう。
この数年、天との「借銭返し」を着々とこなし、そもそも優良債権者だった人から神の手が入っているということは、カルマの「完済」に近いている人が多いということではないでしょうか。
この「借銭返し」を済ませた人から「個の大峠」における「岩戸開き」が起こり身魂は「神世」に渡ります。
この「返済」への流れが一気に加速したのが5月2日満月からの「上昇キャンペーン」であり、私は体感的にも相当な人が「奥山」に入ったと考えています。
「奥山」とは、「我良し」では入ることができない高い波長の集合意識であり、ある意味では新しい気場に築かれた「霊界」と言えるものです。
波長の高い人々が集まって、一つの霊団が形成されるからこそ、この気場は「天国的」様相を持つことができます。
日月神示によれば、「奥山」の天国的気場を「礎」として、神世の「型」を出していくという御計画のようです。
これはかなり抽象的な部分から始まっているため、理解されるのはなかなか難しいかもしれません。
ただ、何もかも「・(キ)」から始まり、「霊主体従」の法則も「霊」の世界から始まるからこそ、ここを飛び越えて何かが起こることはあり得ないのです。
「海の巻・第七帖」には、こうあります。
「今度は先ず、心の建て直しじゃ、どうしたら建て直るかと言うこと、この神示読んで覚さとって下されよ、今度は悪を無うにするのじゃ、無うにするには善で抱き参らす事じゃ、無くする事でないぞ、亡ぼす事でないぞ」
私が最近、「招神万来」でも批判的論調を避け始めたのは、春分以降から進んだ「世界線の二極化」によって、批判への意志は世界線の方向に支障をきたしかねないという感覚を抱いたからです。
「タテ壊し」は、いずれ起こるでしょう。
この世に「闇」をもたらす原因はおろか、それを打ち壊す方法も比較的容易に思いつきはしますが、問題は「タテ直し」の方です。
我が国の政治経済にも物申したいことは山ほどあるのですが、神示の「日月の巻・第三十六帖」を読んで、考えを改めました。
「上の番頭殿は悪い政治すると思ってやっているのではないぞ、番頭殿を悪く申すのでないぞ、善い政治しようと思ってやっているのぞ、善いと思う事に精出しているのだが善だと思う事が善でなく、皆悪だから神の道が分からんから、身魂曇っているから臣民困る様な政治になるのぞ」
今、某女性総理への批判は高まっていますが、彼女を「鞍替え」してもどうにもならなそうなのは誰にもわかります。
だから、どうにか「膏薬貼り」で乗り切ろうとしても、今の日本であらゆる問題が解決に向かうと考えるのは、残念ながら幻想です。
大事なのは「批判」や「破壊」に集中することではなく、むしろ「建て替え」する先のブループリントを描き出すことなのではないでしょうか。
だからこそ、私は「あちら側」への興味関心を「内側」に向け、「気」から立て直すことの必要性を感じたのです。
「雨の巻・第七帖」には、こうあります。
「国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯中々に難しいぞ、人民可哀想だから延ばしに延ばして御座るのだぞ、幾ら言い聞かせても後戻り許ばかりじゃ、言い聞かせて改心出来ねば、改心する様致すよりもう手ない様になっているのぞ、何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん、今までの様な我儘させんぞ」
こう述べられているように、「大峠」の肝はまず「身魂」を改めることであり、それが主目的である以上、「国」としてのあり方は国民の「身魂」次第で変わります。
私はやはり「元」から変える必要があり、ここを避けて通ることができないからこそ、「霊的気場」からの「出直し」こそが日本を建て替える礎になっていくのだろうと考えています。
しかし、なぜ「末端」に近い庶民から「タテ直し」が始まり、世を牛耳る「上の番頭」が未だ手付かずのままなのでしょうか。
それは「タテ壊し」よりも「タテ直し」の方が先にあるべきであり、神々の御計画においても優先度が高いからだと思います。
「まつりの巻・第二十一帖」には、こう述べられています。
「建て替えが二十年延びたと知らせてあろうが、建て替えが遅くなって、それから立て直しに掛ったのでは人民は丸潰れとなるから、立て直し早く、早くかかるからと聞かせてあろうが、人民には中々分からんなれど、世界の動き、良く見て御用結構ぞ」
この「建て替えが二十年延びた」は、解説すると長くなるのですが簡潔に言えば、「1993年酉年」に本来は「地の岩戸開き」が起こる予定でしたが、「二十年=一周」遅れることになったため、36年後の「2029年酉年」に持ち越されることになったと考えられます。
2026年現在、もうコレがブッ壊れればすぐに解決するんじゃないかみたいなモノはあちこちに見えるのですが、それを先に「タテ壊し」たのでは同時の「建て替え」はできず、まず「タテ直し」が間に合わないということなのだと思います。
だから「早く世が変われば良いのに」と思う気持ちもわかるのですが、その前に人々の意識が変わる必要があり、新しい時代の礎となる「型」が完成しなければ、神々も「タテ壊し」には取り掛かれないということではないでしょうか。
だからこそ、「大掃除」も「タテ直し」も、見えるか見えないかわからない、非常に地味なところから始まっているのだと思います。
これが神々が御計画なされた「世直し」の仕組みだとすれば、私たちが視認しにくいとしても順調に進んでいることがわかります。
私も、ここまで「世界線の二極化」が具現化してくると、「あちら側」のあり方に批判を向ける気持ちもなくなり、「金儲けしたいなら別にさせても良いのでは」という考えすら芽生えてしまいました。
もちろん、その資本が国民や弱者から巻き上げた金であるのは事実ですし、詭弁やフェイクを振り撒いて強権的に行われることには一般市民として腹立たしさも感じます。
けれど、ここまで「神の視点」から物事を捉える術を学ぶと、これも「悪の御用」であり、「悪も神の一部」として考え、それも宇宙が「弥栄」となるための礎になるならば、怒りを抱くべきでもないと思うのです。
「いや、そうなるとは限らないじゃないか」と仰りたい気持ちもわかります。
しかし神示にあるように、まるで絵に描いたような「ドン詰まり」の世界において、奇妙なことが日常茶飯事になりすぎて、巻き起こる珍事を普通に受け止め始めた私たちだからこそ、この世界が「変わる」ことに逆に実感が湧いては来ないでしょうか。
やはりこの世界は「神々の手」の内にあり、宇宙も神々の思考によって形づくられているからこそ、今の世を「漫画」みたいだと思っても変に納得できてしまうのです。
この宇宙は「学び」のために出来ており、その「成長」こそが世界の「弥栄」なのだと、今はそれがわかるのです。

