この世の始め、「天地」が一つの元であった頃、「霊」と「物質」は同じ根源の中に混在していたと考えられます。
これは「卵」の卵黄も卵白も、元は同じ細胞から作られているのと一緒です。
これを日月神示風に「◉」で説明するとしたら、こうなります。
「・」を澄み切らせ、純化させるたびに濾過された剰余物は分離し、凝縮されて「◯」として形成されます。
「霊」と「物質」が一つの源から分離される時、「◉」から純化された「霊」が天を、その剰余物として「物」が地を構成するようになったと考えられます。
ゆえに、「天御中主神」から始まった「天地(あめつち)」は本来一つであり、「天」と「地」は表裏一体にあると言えます。
日月神示「秋の巻・第二帖」には、こうあります。
「外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考えるのであるが、それは善と悪でないぞ、内と外であるぞ、外には外の喜び、内には内の喜びあるぞ、二つが和して一となるぞ、一が始めぞ、元ぞ、和して動き、動いて和せよ、悪を悪と見るのが悪」
「◉」の総体からすると、「概念」としては表裏一体として矛盾なく存在しうるものが、なぜか宇宙では「空間」に出ると、「表」と「裏」が同時に出現するような奇妙なことが起こりえるのだと思います。
「表と裏」、「内と外」が同時に現れるのが「天地の理」と言えるのですが、この際に「真逆」の性質を持つ存在が同時に発生することで、両者の間に必然的に「対立軸」が発生します。
しかし「表と裏」「内と外」とは全体から見れば「構造」であって、それ自体に「善悪」を適用することはできません。
これは、本が「表紙」と「本文」で構成されているようなもので、これらには部分に応じて「役割」があるだけであり、どちらが欠けても成り立たないものです。
「悪を悪と見るのが悪」とは、「役割」にしか過ぎないものを「悪」と見て無きものにしようとするから、「全体」としての構成、調和を損なってしまうということです。
これを例えると、ハンバーガーの「ピクルス」が嫌だから、それを取り除いてバンズとハンバーグだけ食べられたら良い、というのに似ています。
もちろん、ピクルスがハンバーガーに入っているのは、このメニューを創作した人たちの「善意」によるものです。
またハンバーガー自体に「善悪」という概念は用いられないのですが、ピクルスを「悪」と見て無くそうとすれば、ハンバーガー「全体」の調和は損なわれてしまいます。
もっと現実的な話に喩えるなら、人の弱みにつけ込んで利用する者や、他人を見下し力で組み敷こうとする者などは、一般的に「悪」と見做されるでしょう。
確かに、「現実問題」として彼らを社会的に排除すれば、一時的に平和になるというのは「事実」として否定できません。
しかし「全体」として見れば、ハンバーガーから恣意的にピクルスを取り除いただけの状況に等しいのです。
つまり総合的に見れば「悪人」を排除した時点で、社会全体としてのバランスは崩れてしまったと言えます。
この宇宙に「表と裏」が同時に存在するということは、「光」をより純なものに、強いものにしようとすれば、その工程の上で分離された「闇」はますます穢れ、より強さを増していくことになります。
つまり「宇宙の法則」として、光を澄み切らせれば、闇は等しく生み出されるということを意味します。
「水と油」が自然に分離するように、「表と裏」も「内と外」も「光と闇」も、純度を増すほどに互いの同じ性質を失っていくとすれば、これらを「等価交換」と考えることもできます。
一方の性質を求めた時、もう一方の相反する性質が同じ規模だけ発生するのならば、相対の出現を許容しない限り、「善と悪」のように対立のループから抜け出すことはできないのかもしれません。
また排除する以外に、相反する性質を強制的に「和」すこと、つまり性格的に敵対性の高いもの同士の「同調」を「相反のない状態」と考え、これを「平和」や「善」と見ることもあります。
「水と油」のような性質を混ぜ合わせ、全てを「エマルジョン(混合物)」にしようとすれば、確かに「分離」も「対立」も起こりえないように思えます。
ただし、相反するもの同士を絶えず同じ場所で攪拌し続けることは、むしろ人類の世界で争いが絶えない一つの要因になっているのではないでしょうか。
そもそも「水は水」「油は油」として分けていれば、それぞれの機能を十分に果たす上に、混合による下手な弊害は起こりえないはずです。
「水と油」を混ぜ合わせるようなことが日月神示に言う「悪平等」であり、本来は「別」にしなければならないものを「一つ」と見て、混ぜて同じものにしようとするため「無理」が生じます。
おそらく、これが三千世界を乱し、三千年の乱世を作り出した「闇」の正体です。
「区別」こそが全体の「調和」には欠かせないものであり、「頭と手足」など各機能が存分に発揮されうる状態こそ、真の「和」と呼べるのだと思います。
「水は水」「油は油」と分けることは「棲み分け」とも言えるのですが、ただ自然の摂理として永遠に同じ場所で同じ状態であることは不可能です。
仮に混ざり合うような状況が生じた時、調和を保つために再び「分離する」ということも重要になります。
日月神示の言い方をすると、物事が動いた時に相反する性質を「分離」して区別することを「祓い清め」と呼ぶことができ、これによって全体の「和」が保たれます。
また「◉」として見れば、「・」の純度を高め「◯」を強化する行為でもあるため、「剰余物を切り離す」という意味でも神道的な「祓い清め」と言えます。
すなわち「全体」が動いて「和」が崩れそうな時、かき混ぜられながらも「分離」を進めることができれば、全体としての「乱れ」は起こりえないものでしょう。
この時「水と油」のように、相反するもの同士が「全体」の調和のために同じように動くことこそ「一つ」であると言え、全体を通して本質的に働く「和」こそ、「大和」と呼ぶことができます。
つまり、「水と油」のように別々でありながらも、同じ場所にある時に「別々に動く」ことは、全体から見て「一つ」であることを意味し、これが真の統一を意味するのです。
話をまとめると、こうなります。
これまでの世界は、「白と黒」を一緒くたにするか、どちらか一方の色を排除することが「平和」の実現と考えられ、「善」とされてきました。
しかし、それでは「悪平等」となり、反発が起こって逆に「悪」となっていたのです。
「和」とは、「白と黒」を選り分けて「別々」の色として活かすことであり、この特色が失われそうな時、再び「白と黒」の配色に戻すことが出来れば、どちらか、または両方の色が失われるような「無理」は生じません。
これが「大和」であり、その実現には物事の順序として「一二三(ひふみ)」を弁え、「祓い清め」を実践する必要があるのです。

